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2007年01月29日

世相:JR中央線の新型電車

西荻窪駅から中央線の快速に乗ったら、新型電車だった。
ニュースで知っていたけれど、初めての乗車体験。
車内はかなり混んでいたので、乗り心地だけ味わう。

さすがハイテクと思ったのは、加速の滑らかさ。
ほとんど気のつかない中に、たちまち巡航速度にアップ。
加速で後ろの方へヨヨョッとなることがなかった。

逆に減速のときは、かなりググッときた。
運転士の手動ブレーキが優先されるためと思う。
まだブレーキの効き具合やタイミングに慣れていない様子。

またまたさすがのハイテクは、ホームに到着・停止するとき。
スー、ピタリ、という感じ。
見事な着地。

カーブでは揺れが大きく、つり革につかまる。
そのつり革が、デザインがいいし、色分けもされている。
ドアの上部分には、大き目の液晶画面が2面あって、動画を流してた。

一首献上:
  <ハイテクの 技を実感 新型電車 運転慣れれば まずは完璧>

  (蛇足)完「璧」は、「壁」でないことを最近知りました。

2007年01月16日

長崎、東京、そして新発田

このところ長崎の話題ばかりを扱ってきました。
新発田以外の場所を訪れて、感動が大きかったこともあります。
長崎は、とても魅力あふれる街だと思います。

特に印象的だったのは、底抜けに開放的な雰囲気です。
もともとの歴史が、外部をとことん受入れることにあったからでしょう。
国際的な観光都市でもあるからでしょう。

どこを歩いていても、よそ者という意識を感じることはありません。
よそ者が裏通りや路地まで歩き回るのに、街の人達に違和感がないからかも知れません。
山と海に挟まれて、街全体がぐっと凝縮された親近感があると思います。

東京はよそ者意識を感じることは全くないのですが、巨大なよそ者の集積地です。
何十万もの人々が、いつもそれぞれの目的地へ入り乱れて行きかいます。
気楽であり、効率的で便利であり、同時に恐ろしく孤独な空間です。

新発田は、城下町であり、よそ者ははっきりとよそ者になります。
自分のように、幼少時を過ごし、親戚があるといっても、50年ぶりではよそ者です。
でも、だからといって決して冷たくはありません。

こちらから近付いていくと、優しく素朴に親切に応対してくれるのです。
長崎のようなよそ者に対する開放感はありません。
東京の「いらっしゃいませー」という商業主義とも違います。

そこが新発田の持ち味と思うのです。
周囲一面に拡がる田園も新発田の魅力です。
そこで実直に米作りに励む農家の人々とのお付合いは、私にとって至上の喜びです。

東京に住んで、米作りを追って新発田に通う。
時々長崎などを訪れ、新鮮な雰囲気を味わう。
こんな理想を実現してブログで表現できれば、もう極楽、極楽なのですが。

2007年01月10日

ぶらぶら長崎:旧町名の復活

長崎市で、1月9日に二つの旧町名が復活しました。
「銀屋町」と「東古川町」。
長崎市ホームページに掲載されています。(下図を借用)

machi.jpg

先日、彼地を訪れたとき、復活することを聞いていました、
帰京後、地元の方のホームページでも拝見していました。
龍馬通りを歩いた(昇って降りた)帰りに、銀屋町通りも歩いたのは偶然の縁。

二つの旧町名は、1966年(昭41)に古川町と鍛冶屋町に統合・分割編入されたとのこと。
これは、1961年(昭36)に施行された「住居表示に関する法律」によるものでした。
道路で町を分割し、何々町何丁目式の町名が採用されました。

旧町名は、道路を挟んで、両側で一つのコミュニティだったのです。
町が分割されても、お祭りの山車や神輿などは、旧町内で多く維持されています。
由緒ある町名の廃止は、歴史・文化の軽視と効率偏重の産物であったとも言えます。

旧町名の復活は、そうした状況に変化をもたらすきっかけになると思います。
努力された住民の方々に敬意を表します。
今年の「くんち」では、両町は最高に盛上がるのではないでしょうか。

 ◇ ◇ ◇

実は、旧町名の復活では、金沢市が長崎市の先輩です。
さすが加賀百万石の城下町です。
読売新聞のYOMIURI ONLINEの「北陸発」(2002年10月16日)の記事を引用します。

金沢市では
1999年に「主計町(かずえ)まち)」を、
2000年に「飛梅町(とびうめちょう)」と「下石引町(しもいしびきまち)」を復活。

また、片町の一部にあった旧「木倉町(きぐらまち)」と、
広坂の一部にあった旧「柿木畠(かきのきばたけ)」を
よみがえらせようという計画があります。

この記事では、旧町名の復活の意義や手続き、課題なども論じています。
町の変化や住民の意識なども関わり、ただ旧に復するというわけにもいきません。
それでも、旧町名を知る人が健在な今が勝負所ではないでしょうか。

2007年01月09日

ぶらぶら長崎:夜景写真ギャラリー

写真ギャラリー

夜景のLサイズ版の写真ギャラリーを作成しました。
前回(12/19)のスライドショーの縦横2倍の写真です。
やはり、迫力がずいぶんと違います。

通常の写真はスライドショーで、セレクト写真はギャラリーで展示していきます。
FLASHは優れたソフトウェアで、こんな展示が可能になりました。
つぎはガイドマップに応用してみようと思っています。

2007年01月07日

ぶらぶら長崎:ビデオ風景

昨年12月初めの長崎行きのビデオを「FLASH」でまとめてみました。
数本のビデオを一画面で見ることができます。
作成に数日かかりましたが、まずまずのビデオギャラリーです。

ビデオギャラリー

ただ、よいビデオがほとんど撮れていなかったので、反省しきり。
特に風景では、何を狙っているのかがあいまいでした。
風景のビデオ撮影の未熟さを実感しました。

「夜景」は、まずまずの映像です。
「風頭」は、鳥のさえずりに救われています。
「グラバー」では、観光客の切れ間に急いで撮影した様子がありあり。

「路面電車」は、浜町交差点の歩道橋の上から撮影。(浜町は、『はまんまち』と読みます)
いろいろな型式の電車が、つぎつぎと現れてきます。
ほとんど全部の型式に乗りましたが、ゴトンゴトンという響きは、まだ感触が残っています。

春になったら、もう一度、長崎に出かけてみようと思っています。
ビデオだけでなく、もっと知りたいことがいろいろあるからです。
長崎の魅力に強く惹かれています。

2007年01月02日

ぶらぶら長崎:龍馬通り

12月5日、龍馬通りを散策しようと出かけた。
諏訪神社前電停で降りて、地図を見ながら、入り口に到着。
な、なんと、坂の上り口。

龍馬通り

ここは長崎、「通り」が坂だからって驚いちゃいけない。
ずーっと、家が続いていて、生活している多くの人達。
坂本龍馬もこの坂の上の方に住んでいた。

けっこう急で、はじめは軽やか、やがて重くなる足運び。
見上げても、見下ろしても、くねくね曲がった坂道。
でも、とてもきれいに整備されていて、住民の方々の心意気が偲ばれる。

 ◇ ◇ ◇

「亀山社中」は、貿易商社の前身のようなもので、龍馬があのグラバーの助けを得て設立。
海外から武器を輸入して、長州藩に供給し、後の薩長同盟につながることとなった。
龍馬の卓越した構想力、交渉力、実行力などが発揮されていると思う。

 ◇ ◇ ◇

「風頭山」(かざがしらやま)の頂上の展望台からは、市街と港がよく見える。
「龍馬像」は少し離れた別の高みにある。
この一帯は公園で、桜の季節にはライトアップされるとのこと。

ガイドブックで確認したら、公園の裏手にバス停があり、そこから散策スタート。
つまりは、坂を150mも上らずに、下りていくコースがお勧めとなっていた。
でも、坂は上る方が楽しい、と負け惜しみ気分。