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米作りを考える11 ~ 食からみる社会の再考

◆大量生産大量消費のツケ
そもそも日本は、国土、気候、自然、歴史などから、多種多様性を特徴にした国だった。
明治維新以来、中央集権と画一化の国家主義で、富国強兵が図られた。
第2次大戦後は、アメリカ式の大量生産大量消費の資本主義で、高度成長が図られた。

とくに、高度成長以来の社会は、ひたすら効率化が中心であった。
低価格の規格品を大量生産し、大量販売し、消費者はそれを買った。
グローバル化が叫ばれると、割高な国内産を見捨て、中国などから製品を輸入し、販売した。

冷凍ギョーザの殺虫剤混入問題が大きなニュースになっている。
輸入加工食品の検査は、業者の自主検査まかせで、複雑な輸入ルートでその万全を期すのはムリだ。
要は、日常の食品までを、効率優先で安易に海外に依存する経済構造のツケが回ってきたのだ。

もちろん消費者も低価格にひかれ、安全を軽視してきた責任を自覚・反省する必要がある。
大量生産大量消費の経済は、地方を疲弊させ、国土を荒廃させ、コミュニティを破壊した。
そのツケは、これから消費者である国民が負担して払わなければならない。

◆食品偽装は社会の堕落の象徴
食品偽装が相次いで発覚した。
偽装した会社の経営者のモラルの堕落は、あきれるばかりだ。
当然、これは社会全体が病んでいることを象徴している。

老舗や地域限定の食品で高評価を受けてきた会社が、偽装に手を染めた。
生産効率や原材料入手に限界があることが、これら会社の製品の価値を高める要因でもあった。
大量生産大量販売で利益を拡大するために偽装をしたのである。

現代は、互いに顔の見えない社会になっている。
偽装経営者は、どうせバレない、と平然と思っていたに違いない。
建築・建材偽装、電力会社のデータ改ざん、厚生労働省の各種隠ぺいなど、みんな同じだ。

◆地産地消の再評価
「地元でとれたものを地元で消費する」のが地産地消だ。
日本はそういう国であったし、今その意義が見直されている。
国内外からかき集めた食品を全国にバラ撒くようなアメリカ式経済の対極にある理念だ。

コストや価格といった金額だけで価値を判断する資本主義社会は、やがて破綻する。
資本ではなく、地域のコミュニティで結びつく社会を再構築することが、これからの日本の目指すべき道だ。
各地の多様な食文化は、日本独自の多様性を醸し出す基盤となるのである。