手植えに思う~伝統農法の営み
◆60年前の思い出の米
仙人の米を味わいながら、ふと思った。
昔(わが幼少時=約60年前)は、米作りは全て「手植え・ハサ掛け」であった。
東京から疎開した我が家では、米の飯は十分ではなかった。芋粥や雑炊も多かった。
戦後の復興期で、米は農協を通じて全部を国が買い上げていた。
供出米と呼ばれ、何より収量が優先されていた。
米は食べられるだけで幸せな時代だった。
そんな中で、極上の米を食べた鮮烈な思い出がある。
銀シャリではなく、金シャリで、粒々が黄金色に輝いていた。
噛みしめたときの弾力ある食感と甘み、香りは忘れられない。
供出米とは別に、農家が自家用に作った特別な米だ。
大人たちの言葉を覚えている。「田んぼの土、水、日当り、肥やしが違う」
(その米を、「ぬか釜」で炊いたものだったらしい)
◆仙人との出会い
思い出の米と会いたい、という願いは、仙人との出会いで果たされた。
「ハサ掛け」をキーワードにして、親戚に依頼し、ついに仙人の田んぼを探しあてた。
親戚、そのまた親戚、いくつもの偶然があっての結果であった。
◆営みということ
以来、仙人のお話、復活した手植えの見学などで、思い出の米の本質が分かってきた。
「手植え・ハサ掛け」だけでは、米はおいしくはならない。
土、水、日当り、肥やしなどが伴ってこそ、あの米の味になる。
つまりは、伝統農法を守る仙人の「営み」である。
「営み」には、営々とひたむきに作業を続ける心がある。
よく紹介される米作り体験風景には、「営みを忘れた」イベントの危うさを感じる。
◆ぬか釜について(補足)
金シャリは、ぬか釜で炊いた飯のこと。
昔はどの農家の台所にも「かまど」があった。
釜をかけ、分厚いヒノキの蓋をして「ぬか=もみ殻」を燃料にして、飯を炊く。
コレが『ぬか釜』で、強力な火力で炊き上げると、黄金色の金シャリになる。
いずれ、仙人の米をぬか釜で炊いた金シャリを食べてみようと企んでいる。
農家のぬか釜は絶滅しているが、幸い、インターネットで入手可能だ。
現代のハイテク炊飯器は、ぬか釜を目標にしているという。
P社の炊飯器とぬか釜で、魚沼コシヒカリを炊き比べるTV番組を見たことがある。
結果は、ぬか釜の金シャリが、炊飯器に優勢勝ちだったが、おもしろい企画と思った。
ハイテクに全くひけをとらない「ぬか釜」に拍手を贈る。
「おひつ」も飯の保存(保温でなない)では、炊飯器を寄せ付けない。
仙人の営みを合わせ、日本の伝統の技の実力に敬意を表したい。
(続く)
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