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2010年12月30日

2010年産米の味(1)

◆米仙人の『ハサ掛け米』
12月中旬に、ハサ掛け米30kg(玄米)が届いた。
精米して、水加減を試行錯誤して、3回目に十分満足できる炊き上がりとなった。
水加減は、わが小型標準的炊飯器の水量メモリの80%にセットした。

やはり、とても<おいしい>。
市販の米とは全く違うのだ。
ことばで表現するのは難しいが、云ってみれば‥‥、

 ・炊いているときに、とてもよい香りが漂う
 ・食べるとき、粒々感がある
 ・米粒には強い粘りがあるのに、米粒同志はくっつかない
 ・ほのかで優しい甘みがある(有機栽培のせいだと思う)
 ・冷えても、電子レンジで炊きたての状態に復活する
  (天日乾燥とおひつ利用のおかげと思う)
 ・手植えやハサ掛けの光景を思い浮かべ、味わいが深くなる

このところ、ご飯の量が2割ほど増えた。
そのため、ベルト回りが少々きつくなっているようだ。
気をつけねば。

◆市販の『魚沼産コシヒカリ』
11月下旬に、スーパーで『魚沼産コシヒカリ』を買って食べてみた。
米の味について語る際、はずせないブランド銘柄だからだ。
2kgで 1,499円の価格は、他銘柄の米の5割高であった!!

さて、以下ではこの米をきびしく評価することになるが、お断りが必要だ。
評価は、購入した袋に入っていた米についてのものである。
<魚沼産コシヒカリ>全般に対するものではない。

 ◇ ◇ ◇

結論は、<おいしくはない>(仙人の米に比べて)である。
理由は、本物の上質の魚沼産ではなく、<ブレンドされた魚沼産もどき米>だからと推測する。
純粋で上質の魚沼産なら、ずっと<おいしい>はずだ。

つまり、『魚沼産コシヒカリ』というブランドに便乗した、もどき商品だ。
ほどほどの品質の魚沼産をベースに、粘りや香りや食感を加味する米をいろいろブレンドする。
それによって、魚沼産ブランドで売れる米の量を増やし、ブランド力に便乗して高値をつける。

消費者は、魚沼産ブランドに惹かれ、価格も高いからかえって信用して買う。
うまくもない店頭販売の魚沼産(高級感のある包装袋)を、『魚沼産コシヒカリ』として味わう。
米穀業者はほくそ笑み、消費者は自己満足する、という構図が見えるのである。

 ◇ ◇ ◇

米仙人の米と比較すると、分りやすい。
炊飯器もおひつ(曲げわっぱ)も同じで、水加減をいろいろ変えて試した。
それでも以下のような評価になる。

 ・炊いているときに、とくに香りが漂うことはない
 ・米粒には強い粘りがあるが、米粒同志がくっついてしまう
 ・有機栽培ではないから、優しい味わいはない
 ・冷えると、米粒同志がくっついて固まり、電子レンジで暖めても元に戻らない

以上は、2010年産のスーパー店頭販売の『魚沼産コシヒカリ』の場合である。
ただし、2009年産の場合の商品は、十分に<おいしかった>。
要は、価格やブランドや包装デザインではなく、自分の舌で評価することが肝要ということだ。

2010年12月28日

2010年の米作り見聞録考

◆2010年の反省
今年は、特に田植え以降の記事が少なくなってしまった。
書きたいことは、かなりあったはずなんだが。
反省と言い訳は次のようなもの:

 ・天候不順で、農作業と訪問のタイミングが合わなかった
 ・5月の連休中から、突如、城下町新発田にエネルギーを集中した
 ・見聞のやり方に限界を感じ、切っ先が鈍った

◆米作り見聞の限界を感じる
米作りにおいて、田植えや稲刈りはよく目立つ<イベント>である。
分りやすく展開されるから、写真やビデオのよい素材である。
いわば、『絵』になる、ということだ。

しかし、米作りは約半年間の<継続作業>である。
田植えまで、田植えの後、そして稲刈りまで、農家の作業は絶え間なく続く。
田起し、播種、育苗、水の管理、追肥、溝切り、薬剤散布、機械の手入れ、などなど。

ひとつとして欠かすことはできない。
稲は、生き物であり、自然の中で毎日成長する。
農家は、それと毎日関わり続ける。

時々、東京から出かけて、米作りの断片を切り取る。
当初は、田植えや稲刈りに夢中になった。
やがて、合い間の作業にも、眼が行くようになった。

たとえば、広く拡がる田んぼで、、炎天下、たった一人で黙々と溝切りをするHさん。
その後姿は、ひたむきに米作りにいそしむ男の背中を見せている。
あの感動の場面は、瞼にしっかりと焼き付いている。

たとえば、夕日を浴びて、田植え前のあぜを鍬で鏡のように磨き上げていた米仙人。
土を慈しむ姿は、神々しいほどの光の世界の中にあった。
あのあぜの輝きは、これも、瞼にしっかりと焼き付いている。

見えにくい地味な米作りに込められた人の心を、どれほど感じ取っていたのだろうか。
そのことに限界を感じ始めていた。
空しいというか、農家に申し訳ないというか。

ひとつの解決策は、新発田に半年間は続けて滞在し、田んぼに通うということだ。
いや、そうするしかないと確信する。
やがては、実現したいと<楽しみ>にしている。

(マスコミが流す米作りの<虚像>をぶっ飛ばしてやらねばならない)