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F1野菜:迫り来る影

◆F1野菜は野菜か?
先に(12/00)、F1を私的に表現した:

-- ・F1は、雑種強勢による一代交配雑種で、多くは雄性不稔ミトコンドリアを持つ

前半部分は<F1が急速に普及した理由>にもなっている。
後半部分は<F1の危うさを示唆する要因>になっている。

そもそもこうしたF1野菜は、野菜といえるのだろうか?
自然界ではたちまち淘汰されるF1が、人工的に大量生産され、市場にあふれている。
ここでは、<野菜もどき>のF1野菜がもたらす弊害について考えてみたい。


◆<在来種(固定種)>の衰退
現在の市場構造では、<在来種(固定種)>野菜はF1に対して著しく劣勢である。

-- ・生育期間がF1よりかなり長い
-- ・同時に蒔いても個々に育つので、同時にまとめて収穫できない
-- ・大きさや形が揃っていないので、選別に手間がかかる
-- ・傷ついたり折れたりしやすいい
-- ・日持ちしないものが多く、収穫後の保管がしにくい

生産農家からは敬遠され、流通・小売業者には嫌われ、消費者には疎まれる。
かくして、種苗会社の繰り出すF1が覇者となる。
<在来種(固定種)>の栽培農家は激減してしまった。

良識的な顧客を持つ<在来種(固定種)>栽培農家は、したたかに活躍している。
自家菜園でも<在来種(固定種)>は生き残っているようだ。
しかし、全体としては<在来種(固定種)>は衰退の一途をたどっている。


◆「和」の食文化の衰退
<在来種(固定種)>野菜の衰退は、「和」の食文化を衰退させている。
「素材の味」を生かすのが「和」食の特徴だ。
F1は、その肝心の「素材の味」を捨てた、無個性な味の<野菜もどき>である。

ダイコンらしい味はせず、ニンジンらしい味はせず、ゴボウらしい味もしなくなった。
季節の味も、地方の味も、農家の味も失われた。
F1は、短期間で生育するので熟成期間がなく、個性が集積しないためであろう。

 ◇ ◇ ◇

これは、たとえば惣菜屋さんや弁当屋さんには都合がいい。

ダイコンだけをダイコンらしく味付けする、ニンジンしかり、ゴボウもしかり、…。
それぞれの味を、後付で自由自在に合成できる。
F1は形も大きさもそろっていて、煮崩れもせず、作業効率もいい。

それらを小分けの野菜煮として盛合せればよい。
見かけの素材の味で、見かけのおいしさが実現される。
おいしいと感じるから消費者は歓迎し、惣菜も弁当もよく売れる。

一方で、F1野菜は、伝統的な家庭料理にはかなり不都合だ。

ふつう家庭では、いろいろな野菜を一つの鍋に入れて、煮て味付けする。
<在来種(固定種)>であれば、それぞれの野菜がそれぞれの味を出してくれる。
ダイコンはダイコン本来の味を、ニンジンしかり、ゴボウもしかり、…。

味付けは共通でも、野菜の個性で多彩な味のハーモニーが生まれる。
自然の素材の味で、自然のおいしさが実現されれるのである。
それが、おふくろの味であり、家庭の味であり、ふるさとの味である。

F1野菜では、こういう料理は作れない。
個々の野菜に個性などないから、全体で平々凡々な味にしかならない。
惣菜・弁当の見かけの人工味に勝てず、家庭料理を作る張合いが失われた。

かくして、F1は「和」の食文化を家庭から追い出した。
F1の勝利は、経済効率優先の必然の結果でもあった。
最近、おふくろの味がひときわ懐かしいと感じる。

◆日本危うし!!
F1は、<豊かな多様性>をもつ農業を<単純化・規格化>してしまう。
F1は、<伝統的な和食文化>を破壊し、<人工的食文化>を蔓延させる。
F1は、雄性不稔ミトコンドリアで、人の遺伝子に悪影響を及ぼす恐れもある。

F1は、農業的、社会的、生物的にかなり危険な農産物だ。
野放しでいいのか?意識もせずにF1を食べていていいのか?
我々は、F1から逃れる方策を真剣に考える必要がある。