2015年10月21日

新発田の「御成り道」の説明文

 「新発田マップ」で再生される「御成り道」音声ガイドの説明文テキストを掲載します。


◆「御成り道」の説明文

 城下町・新発田の「御成り道」コースをご案内します。

 御成り道とは、藩主が城下町の外からお城の本丸へ入る時、公式に通る道のことです。
 参勤交代の行列も往来しました。
 どの城下町にも御成り道はあったと思われますが、そのほとんどは忘れ去られています。

 そんな中で、新発田の御成り道は、ほぼ当初の道筋がそのまま残されています。
 古い絵図にも、御成り道を描いた場面があります。
 江戸時代を通じて、200年以上に渡り、参勤交代の行列が往来しました。

 御成り道は、城下町の作りとお城の縄張りを、実感することのできるルートです。
 全長は、約2㎞です。
 やや詳しくご案内しましょう。

 起点の上鉄砲町には、約90軒の鉄砲足軽の屋敷が並んで、守りを固めていました。
 ここから、T字路に突き当たっては直角に曲がって、にぎわう商人町を抜けて行きます。
 城下町らしい「鍵曲り」のような街路構造です。

 大手先には、お城の御用を勤める職人の住む御免町がありました。
 お城の表玄関である三の丸・大手門は、軍勢が通りにくいように枡型で構えていました。
 現在、大手門の跡地は新発田警察署になっており、ここはショートカットになります。

 大手門から城内に入ると、大きな武家屋敷が並んでいた三の丸の通りです。
 直線的に進むと、突き当りに、かつて二の丸・中ノ門がありました。
 前面のお堀、左右の櫓、中ノ門は、残念ながらいずれも失われています。

 中ノ門の跡地から二の丸に入り、本丸へと向かいます。
 堅固で美しい本丸の石垣が現れ、鉄砲櫓(現・隅櫓)が見下ろしています。
 左手に延々と続く石垣の彼方に三階櫓、一方の右手には、表門と辰巳櫓が望まれます。

 細長い帯曲輪へ渡り、堀沿いに進んで、本丸・表門の前に到着。
 橋を渡り、表門をくぐると、かつて広大な御殿があった本丸です。
 初代藩主・溝口秀勝公の銅像が迎えてくれます。

 左手の奥には、屋根に三匹の鯱が輝く三階櫓がそびえています。
 三階櫓は、実質、新発田城の天守閣です。
 天守閣と称さなかったのは、一国一城令と越後内の譜代大名に遠慮したためでしょうか。

 御成り道は、ドラマチックな「ストーリー」を思い浮かばせてくれるルートです。
 時を越えて、バーチャルに、参勤交代の行列に加わってみてはいかがでしょうか。
 あるいは、お城をめざして攻め込んでいくと考えるのも、また、別のストーリーです。

 これらのことは、御成り道を実際に歩いてみてこそ、体験できるのです。

 最後に本丸に到着したときのご感想はいかがでしたか。
 今夜はゆっくりと風呂に入って、旨い地元の酒と料理を味わいたいものだ。
 そんなお殿様気分に浸れるかもしれません。

 たぶん、歩くたびに異なるストーリーが展開されることと思います。
 それが、この御成り道コースの魅力です。
 どうぞ、ごゆっくりとお楽しみ下さい。

2015年09月24日

新発田の「御成り道」

◆御成り道とは
 御成り道とは、城下町の外からお城へ入る道で、参勤交代の行列の公式ルートでもある。
 どの城下町にも御成り道はあったと思われる。
 しかし、そのほとんどは存在したことすら忘去られている。
 
 新発田の御成り道はどうなったのか。
 実は、ほぼ完璧な街路としてそのまま残されているのである!
 全国でも随一と誇れるような、みごとな御成り道である。


◆新発田の御成り道
 新発田の御成り道は、旧町名で表現すればつぎのようになる:  

  上鉄砲町 → 人数溜り →立売り → 万町 → 札の辻 → 大手先
  → 御免町 → 三の丸大手門 → 三の丸通り → 二の丸・中ノ門
  → 二の丸 → 土橋門 → 帯曲輪 → 本丸表門 → 本丸

 全長は、約2㎞である。
 このうち、三の丸大手門は跡地が新発田警察署となっており、通れない。
 その部分は、今のところ、ショートカットになるのはやむをえない。

 古地図では、御成り道という表記は無いので、それと意識して読む必要がある。
 著作権の関係で、古地図はここには表示できない。
 「城下町・新発田マップ」には表示してあるので、ホームから参照していただきたい。

 「新発田より江戸道中絵図」(愛知県西尾市立図書館蔵)というのがある。
 これの最初の部分には、札の辻から人数溜り、ついで上鉄砲町の鳥瞰図が描かれている。
 他にも、大手先から大手門の風景を描いた別の絵図もある。

 古地図にも古絵図にも、現在の街路としても、「御成り道」は残っている。
 にもかかわらず、新発田ではほとんど関心を持たれていない。
 足元に貴重な観光資源が眠っているのであるが…。


◆散策・観光コースとしての御成り道
 御成り道は、散策・観光コースになれるであろうか。
 「Yes」である。
 しかも、世の一般的な観光コースとは別次元の特徴がある。

  ◇ ◇ ◇

 一般の観光コースは、いくつかの観光スポットを順に線で結んだものに過ぎない。
 あるスポットからつぎのスポットへ、単に通りやすい道筋を移動する、のを繰り返す。
 各スポットは、地理的な順番で結ばれていくだけである。

 こういう観光コースには、各スポットの順番の必然性も関連もない。
 だから、コースとしての「ストーリー(物語)」がない。
 「ストーリー」がないから、コースの印象が薄く、どこを回ったのか覚えにくい。
 
  ◇ ◇ ◇

 御成り道は、築城時に設計された道筋である。
 江戸時代を通じて、200年以上も参勤交代の行列が往来した。
 城下町の入口から本丸までの公式ルートであった。

 上鉄砲町には、約90軒の足軽屋敷が並んで、守りを固めていた。
 ここから、T字路に突き当たっては直角に曲がるを繰り返して、にぎわう商人町を進む。
 城下町らしい「鍵曲り」のような構造である。

 大手先には、お城の御用を勤める職人の住む御免町があった。
 三の丸・大手門は、寄せ手の軍勢が通り難いように構えていた。
 城内に入り三の丸の大通りを行くと、突き当りが二の丸・中ノ門である。

 前面のお堀と左右の脇櫓に守られた中ノ門から二の丸に入る。
 本丸の西南端の構える鉄砲櫓(現・隅櫓)の真下で、帯曲輪へ渡る。
 堀に挟まれた細い帯曲輪を通って、本丸表門前に到着。

 表門をくぐると、かつて広大な御殿があった本丸である。

  ◇ ◇ ◇

 御成り道は、城下町の作りとお城の縄張りを、実感することのできるコースである。
 参勤交代の行列が街を行く光景が目に浮かぶ。
 お城の櫓や堀や石垣などのイメージが迫ってくる。

 行列の人々の心に思いをはせることもできる。
 一年ぶりに江戸からの長旅を終え、無事に帰着した安堵感。
 藩主、同行の家来衆、出迎える町人、在郷の藩士、それぞれの郷愁。
  
 御成り道には、ドラマチックな「ストーリー」がある。
 時を越えて、まさに参勤交代の行列を眺めているようなバーチャル空間に誘われる。
 その感覚は、心に御成り道を鮮明に刻み込むことになると思う。


◆御成り道を観光コースにする第一歩
 新発田の御成り道は、しっかりと存在している。
 観光コースとしての潜在力も十分にある。
 そして忘れ去られた現状。

 御成り道を観光コースとして蘇らせるにはどうすればよいか。
 課題や問題を整理しなくてはならない。
 ここでは、初めの一歩について、提案しておきたい。

 【提案】
   ・御成り道そのものを理解すること
   ・御成り道の現状を把握すること
   ・観光コースとしての要件を確認すること 
   ・観光コースとしての整備計画を立案すること 

2015年08月17日

新発田の旧町名説明文作成が終了

 旧町名説明文の作成が、ようやく終了した。
 目標の7月末から二週間遅れた。
 仕事が入って一週間、旧町名関連の調査を拡げたことで一週間、が原因であった。


◆終了はしたけれど
 物事は調べれば調べるほどに、よく分ってくる。
 分って解決するのがほとんどなのだけれど、逆もある。
 分らないということが分かる、ことも多い。

 例えば、
  ・「町」の読みは「マチ」か「チョウ」か
  ・説明情報が不十分(桶屋が多く住んでいたから桶町、ではどうしようもない)
  ・説明情報が無い (なぜ大黒小路?、なぜ石川小路?)

◆マップに音声ガイドとして組込む
 いろいろあるが、ひとまず終了とした。
 加除修正は継続していく。
 このあと、音声ファイルを作成して、早めにマップに組込みたい。

2015年08月09日

新発田の旧町名説明文の遅れ

 旧町名説明文の作成が遅れている。
 もう少々かかる。
 夏休みの宿題を抱えた感じがする。

 遅れた理由は二つ:
  ・7月末に仕事が入ったこと
  ・調べている途中で深みにはまったこと

◆7月末に小さな仕事
 会社の顧客から、システムの修正依頼があって、数日の作業が発生した。
 従来の処理に例外を追加するので、細心の注意を要した。
 先週末に検収が完了した。

 ◆調べては深みにはまる 説明文の検討が遅れているのは、仕事のせいばかりではない。

 江戸時代の職人について調べていくと、果てしなく深みにはまっていく。
 特に、現代に残されている状態は、興味深く、説明文は後回しだ。。
 カッコよく言えば、ネットで「知の旅」に浸っていることになる。

 指物町の指物屋、桶町の桶屋、職人町の鍛冶屋について、重点的に調べてきた。
 結果、説明文の材料はそろったので、このあたりでまとめに入る。
 それにしても新発田には、かつて立派な職人の町があったのにと、きわめて残念に思う。

2015年07月16日

新発田の旧町名説明文経過報告

 旧町名の説明文の作成は、予定より遅れているが、かなり進んでいる。
 頼りにする資料は、市立図書館の『城下町新発田の旧町名』(2009年刊行)のみ。
 その複写を参照しながら、古地図も見ながら、作業している。
 
◆武家町は終了
 「新発田マップ」用の音声テキストとしては、ひとまず終了とした。
 それぞれの町名の由来や成り立ち、古地図の屋敷割りを見ると、往時の街が偲ばれる。
 それにしても、現在の街は、個性が乏しく、秩序が無く、美しさもないと思う。

◆商人町も終了
 簡単に済ませられると思ったら、そうはいかなかった。
 特に「上町」は、大手先の正面で、T字型で札の辻があり、奥行き100mの商家が並ぶ。
 これらをどう適切に表現するかに手間どり、数日かかった。

◆職人町はこれから
 参考資料を引用すれば良いと、甘く考えていた。
 しかし、例えば「指物町には指物屋が多く住んでいたから指物町だ」には疑問が湧く。
 なんで指物屋が集まったのか、多いとはどれほどか、他にどんな店があったのか、など。

 よく調べないと分からないから、今は、参考資料の無難な説明を引用することにする。

◆寺町、泉町などもこれから
 参考資料には、かなり詳しく掲載されている。
 分かりやすく要約すれば良さそうだ。
 職人町に先行するかもしれない。

2015年07月05日

城下町・新発田の旧町名説明文を作成中

◆失われた旧町名
 新発田は城下町であり、全体が藩により、厳格に屋敷割りされていた。
 武家も町民も、身分や職業によって、それぞれ居住する町が決められていた。
 町名によって、城下町の作りがよくわかるようになっていた。

 武家町の町名は、位置や町並み、居住者の職掌などで決められた。
 職人は、職種によってまとまって同じ町内に住んだ。
 商人は、中心部に商店街らしい町名の町で、店を並べた。

 そうした由緒と特徴のある、意味のある町名は、昭和30年代の新住居表示により消えた。
 新住居表示では、地域を幾何学的に分割し、平易な町名と数字の丁目を割り付ける。
 それが現在の新発田のほとんどの町名である。


◆旧町名の説明文をまとめる
 失われた旧町名を調べるには、古地図と参考書のお世話になる。

   ・「新発田藩家中屋敷割図(明治初年版)」

   ・「城下町・新発田の旧町名」
     佐藤 恒男/著 新発田郷土研究会 2009年08月(市立図書館蔵)

 後者は、新発田の旧町名についての唯一の参考資料である。
 町の成り立ちや町名の由来、関連する屋敷割り図や古写真などをまとめた小冊子である。
 必読の一冊といえる。

 ただし、町名間で記述にバラツキがあるので、今回の説明文にそのままでは使えない。
 多くの内容を頼りながらも、分りやすい説明文を構成するようにしている。
 想定外のハードな作業であるが、けっこう楽しめる。

 城下町の成り立ちや歴史、興味深い事実などが、次々と現れてくる。
 単に参考資料として読むのではなく、気合を込めて読むからであると思う。
 城下町・新発田の奥行きは深い。

 
 (まもなく、武家町の説明文がまとまります)

2014年08月26日

新発田城御殿間取り図:御間柄全図(1)

◆『新発田城中御間柄全図』(復元図)
 古地図『一歩一間歩詰惣絵図』に加えて、もうひとつの復元図がある。
 新発田城の本丸御殿の間取り図だ。
 これも先回の紀行で借用できた。

 『御間柄全図』は、明治34年(1901年)、藩の棟梁であった股野氏の子孫が作成した。
 本丸全体(堀、石垣、櫓、門、御殿、庭など)と御殿内の間取りを正確な絵図にした。
 御殿の全部屋の呼称、廊下や塀などが丁寧に描かれている。

 御殿は二階建てで、原図では一階部分の上に二階部分を貼り重ねてあるという。。
 復元では、その状態を彩色で鳥の子紙に復元した。
 そして、薄紙で一階部分をモノクロで復元した。

 原図は、100分の1縮尺で、横107cm、縦78cm。
 復元図は、原図の70%縮小で、横79.5cm、縦56cm。薄紙の図面は、横55cm、縦39cm。
 復元図は、1977年に、限定800部、頒布価格1,300円で発行された。
 
 
◆『御間柄全図』のデジタル・コピー
 『御間柄全図』を精度600bpi、JPEG形式でスキャンし、パソコン上にデジタル化した。
 絵図全体の画像ファイルは、横19,943×縦12,208pixel、容量は 192MBとなった。
 Adobeの「Photoshop Elements 11」であれば、詳細部分まで問題なく拡大できる。

    → 『御間柄全図』の画像

◆部屋割りについて
 復元図には、2頁の解説書が添付されている。
 ただ、個別の部屋については、特に記載されていない。
 知りたくても、よく分らない、というのが実情のようだ。
 
 御殿は、大きく東側の「表御用」と西側の「裏御用」に分かれる。
 「表御用」は公的部分で、「裏御用」は藩主の私的生活部分である。
「裏御用」は、御殿全体の約3分の1の面積を占めていた。

  ◇ ◇ ◇

 「表御用」に「時計の間」というのがある。
 ここは、家老クラス9名と御用人クラス6名のみが、入ることを許されていたようだ。
 すぐ隣には「御膳仕立ての間」という大きな部屋があり、宴席に使われたのかも。

 部屋は、身分と職制によって厳しく割り当てられていた。
 日常的な藩の行政が、どこで行われていたかも知りたいものだ。
 数ヶ所に、休息所とお菓子の間が設けられているのも興味を惹かれる。
 
  ◇ ◇ ◇
 
 「裏御用」には、藩主の「居間」や「書斎」などがある。
 これらは、御殿の西南部分の庭(池がある)に面した南向きの部屋である。
 まさに、殿様気分の生活環境だ。

 
◆(ひとこと)
 復元図は、一階に二階が重なっているが、これは意味がない。
 一階と二階は、それぞれ分けて、二枚で復元して欲しかった。
 二階部分を薄紙にして、一階部分に重ねて見れるようにすると、きわめて便利だ。

 (著作権の関係で、スキャン・合成したJPEGファイルは、公開を控える)

2014年08月14日

新発田古地図:一歩一間歩詰惣絵図(2)

◆復元図のデジタル・コピー
 『一歩一間歩詰惣絵図』のデジタル・コピーをパソコンに取り込んだ。
 大きな絵図をやや高い精度(600bpi、JPEG形式)でスキャンした。
 絵図全体の画像ファイルは、横21,403×縦28,268pixel、容量369MBと大きくなった。

 この大きさだと、通常の写真表示ソフトでは、全体の縮小表示がやっとだ。
 拡大していくとボヤケてしまい、細部を判別できないので、役に立たない。
 Adobeの「Photoshop Elements 11」であれば、詳細部分まで問題なく拡大できる。

◆「札の辻」付近の拡大図(画面Copy)
 例えば、「札の辻」に描かれたごく小さな高札場の絵を、形状まで十分に確認可能だ。
 小さな文字(間口など)も判読に十分な表示まで拡大できる。
 画像ファイルは、横 883×縦 404pixel、容量 501KBである。(Photoshopの画面Copy)

<


◆絵図全体の縮小図
 部分を拡大しても、全体像は分からないにで、全体画像の縮小版を作ることにした。
 これも問題で、「Photoshop」でもうまくいかない。
 「IrfaanView」というフリー^ソフトが役に立った。(上記のような拡大表示はダメ)

 普通の写真を縦にした大きさで、容量を減らすため、GIF形式にした。
 絵図に描かれた新発田城下町の全体が、分ってもらえると思う。
 画像ファイルは、横 485×縦 640pixel、容量 132KBである。

 この縮小図の、上部中央にあるのが「本丸」、右下に延びているのが「上鉄砲町」。
 「二の丸」、「三の丸」を囲むお堀は、即、新発田城と分るすばらしい造形だ。
 城下町と絵図のPRに利用するのに便利な図であると思う。


◆「三之町」の部分図
 全体では大き過ぎて不便なので、部分図を作った。
 この絵図の特徴である町人町で、当時の街路もそのまま残る「三之町」を選んだ。
 画像ファイルは、横 640×縦 333pixel、容量 193KBである。

 だいぶ粗くなったので、文字の判読は困難だ。
 こういう町人町が古地図に描かれていたというデモ用には、十分使える。
 町内の家数や奥行の深い店構えが見て取れる。

 (著作権の関係で、スキャン・合成したJPEGファイルは、公開を控える)

2014年08月10日

新発田古地図:一歩一間歩詰惣絵図(1)

◆復元図が手元に来た!
 天保年間(1840年頃)に作成された新発田の古地図『一歩一間歩詰惣絵図』。
 読みは、「イチブ イッケン ブヅメ ソウ エズ」。(これまでの読みを修正)
 その復元図が、今、手元にある。

 原図は、個人の所蔵で、これを「新発田古地図等刊行会」が縮小復元した。
 原図は、縮尺600分の1で、それをさらに45%縮小。
 1974年(昭和49年)に、限定500部が頒布された。(価格 1,200円)
 
 復元図は、新発田市立図書館も収蔵しており、申込むと閲覧できる。(写真撮影可)

 『一歩一間歩詰惣絵図』の存在は、例の「城下町古地図散歩3」で知った。
 そこには、文字がほとんど判読不能なほどの縮小版が掲載されていた。
 その後、図書館で閲覧できたが、今度は大き過ぎて、うまく鑑賞できなかった。

 手元でじっくりと鑑賞してみたいと、ずっと思っていた。
 再び復元する運動を提起するしかないか、と思っていた。
 そこへ、何の予告もなく、幸運の女神が舞い降りた。(7月31日)

 刊行会に関わっていた方が亡くなり、遺品の中に、復元図等一式があった。
 息子さんがそれらを、ある知人のところへ届けてくれた。(感謝!)
 知人とはよく城下町の話をしていたが、そうした縁が古地図を導いてくれた。

 借用した古地図は、複合プリンタのスキャナ機能でパソコンに取り込み中である。
 ご好意に応えるべく、内容を読み解き、大いに活用しなくてはならない。
 著作権に十分配慮しつつも、当図のPRのため、ごく一部を公開しようと思っている。


◆『一歩一間歩詰惣絵図』の特徴
 主な特徴:
 -- ・城下町全体の武家町、町人町、寺社の屋敷割りを全て網羅している
 -- ・町人町を含め、各屋敷地の住人名が記載されている(判読力を要する)
 -- ・主な屋敷地の間口と奥行の長さが記載されている
 -- ・サイズは、原図(縦200cm、横260cm)の45%縮小(縦87cm、横119cm)

◆『明治初年 新発田城町絵図』との比較
 明治初年版の町絵図の主な特徴:
 -- ・武家町、寺社のみの屋敷割りと住人名を記載している(文字は判読容易)
 -- ・清水園、諏訪神社、上鉄砲町などの部分が割愛され、新築地が追加されている
 -- ・全体的にシンプルで見易く、道路も現状によく適合している

 -- ・サイズは、縦78cm、横105cm
 -- ・ネットの古地図ショップで購入(2,700円)できる

 <古地図を手にして城下町を回る>には、これの方が適している。
 町人町や上鉄砲町付近の情報は『一歩一間』で補完する。
 かなり、理想的な組合わせである。

◆『一歩一間歩詰惣絵図』の名称の意味は不詳
 「一歩一間」は、「一間」を「一歩」に縮小したということのようだ。
 「一歩」がどういう単位なのかは、ピッタリした説明が見つからない。
 「歩詰」は「一歩」に満たない部分を四捨五入するということ。

2014年01月22日

参考書:「城下町古地図散歩」シリーズ

約3年ぶりの「blog歴史」の記事です。

◆ついに「城下町古地図散歩」シリーズを揃えた
平凡社の「城下町古地図散歩」シリーズは全9冊。
1995-1998年に発行されたが、絶版になっている。
Amazon.comに出品された中古本を、順次、蒐集した。

◇ 城下町古地図散歩(平凡社 太陽コレクション)◇

タイトル発行年定価購入年月中古価格
1 金沢・北陸の城下町1995年2,800円2012年11月4,200円
2 名古屋・東海の城下町1995年2,800円2010年11月2,250円
3 松本・中部の城下町1996年2,800円2010年08月3,400円
4 大阪・近畿1の城下町1996年2,800円2010年11月3,740円
5 萩・津和野 山陰・近畿2の城下町1997年2,900円2010年08月2,000円
6 広島・松山 山陽・四国の城下町1997年2,800円+税2010年09月3,000円
7 熊本・九州の城下町1998年2,800円+税2012年06月4,156円
8 仙台 東北・北海道の城下町1998年2,800円+税2010年08月5,600円
9 江戸・関東の城下町1998年2,800円+税2014年01月1,169円

(新発田市立図書館には、「城下町古地図散歩」シリーズは一冊もない)


◆内容の特徴
ほとんどの城下町が網羅されている。
各城下町の古地図が、同じ縮尺で、現代の地図と並べて掲載されている。
遺された街の景観図、絵図、その他が、出典と共に多く掲載されている。

また、藩主の変遷や城下町の歴史、概要などの説明文は、地元の人達が執筆している。
故郷の城下町を熱く語っており、学者や観光ジャーナリストなどの文章とは、味が違う。
城下町のお薦め散策コースも紹介されている。

ただ、年表、藩主の変遷の表、系図、コース地図などが無いので、かなり分かり難い。
もっとも、これらは、紙の情報よりもITが分担する方が良いと思う。
新発田城下町を題材に、そのあたりにチャレンジしてみたい。

 ◇ ◇ ◇

Amazon.comで中古本を購入してきたのだが、その価格はけっこう変動する。
9 江戸・関東編は、ずっと4,000円台であったが、最近は、1,169円。
これを購入して、シリーズのセット完了。

3 松本・中部編新発田を含むは、3,400円であったが、最近は、1,450円。
そこで、もう一冊を購入しておいた。
新発田の人達に見てもらいたいと思うからである。


◆古地図の世界へ
「出典」のおかげで、新発田のすばらしい古地図と絵図の存在を知った。
-- ・一歩一間歩詰総絵図(天保年間製)個人所蔵
-- ・新発田より江戸道中絵図   愛知県西尾市の岩瀬文庫所蔵

古地図は、現在入手不可能であるが、ネットで探していたら、もう一枚が見つかった。
-- ・新発田藩家中屋敷割図(明治初年版) 新発田市立図書館で複製を閲覧可
これは、ネットの地図ショップで複製販売されており、自分は複数枚を購入した。

両方の古地図は、共に、新発田市立図書館で複製を閲覧できる。
両方の古地図は、共に、きわめて鮮明な屋敷割り図で、他の城下町の古地図とは異なる。
これらを縮小印刷したものを手に、城下町巡りをすることは、最高の観光資源となる。

2011年03月04日

参考書~「すぐわかる日本の城」

◆すぐわかる日本の城
西荻図書館で、もう一冊のお城参考書を借りた。

・すぐわかる日本の城
   三浦正幸監修 東京美術 2009年 2,100円

前回紹介した「城郭の見方・調べ方ハンドブック」と同分野を扱っている。
こちらでは、現存天守(12)を望楼型と層塔型に写真と共に分類している。
ただし、写真は個々の天守で向きなどが不統一で、特徴も分りにくいものがある。

飾り屋根(破風=はふ)の説明は分り易い。
しかし、屋根の型式(入り母屋、切り妻、寄せ棟)の説明は、やはり無い。
いくつかの天守が写真やイラストを交えて説明され、ストレスはかなり解消した。

◆Amazon に発注
2冊を発注(3日午後)したら、翌日配送(4日9:30)された。
 ・城郭の見方・調べ方ハンドブック
 ・すぐわかる日本の城

◆お城の参考書はそろそろ打ち止め
これまでに揃えた参考書で、これ以上は要らないと思われる。
紙の本には限界もある。頁数の制限は大きく、写真などの更新もできない。
本の最大の特徴は、専門知識のある編著者の責任で書かれている、ということだ。

ネットでは、検索キーワードを工夫すれば、まだ有力な情報が得られる。
ネットの情報は、いつも信頼性と正確性に注意をしながら受け取る必要がある。
ネットを利用して情報を収集・集積するポイントは、オープン化だ。

Wikipediaのように、みんなで作っていく百科事典はよいサンプルだ。
お城と城下町を散策して楽しむには、もっともっと情報を集めなければならない。
いよいよ3月であり、城下町紀行が近付いてくる。

(それにしても、Amazonの豊富な在庫と迅速な翌日配達はスゴイ!)

2011年02月28日

参考書~「城郭の見方・調べ方ハンドブック」

◆城郭の見方・調べ方ハンドブック
お城について、かなり入れ込んで調べている。
西荻図書館で参考書を何冊も閲覧し、借りたりした。
建築の書棚にあった1冊を紹介する。

・城郭の見方・調べ方ハンドブック
   西ヶ谷恭弘ほか編著 東京堂出版 2008年 2,520円

前回紹介した「城郭みどころ事典(東国編),(西国編)」の姉妹本だ。
城別ではなく、天守、櫓、門、堀、石垣などからの見方をまとめてある。
これも、NHK教育TVの「にっぽんの城」テキストの広告に載っていた。

◆説明文も写真もかなり充実
天守にば、望楼型と層塔型があること、飾り屋根(破風)の種類などが理解できた。
櫓や門についても、あいまいだったところが理解できるようになった。
写真は、見方のポイントを押さえているものが多く、参考になる。

◆ハンドブックとはいえない!
要点がまとまっておらず、文章全体を読み直さないと、知りたいことがつかめない。
書いてはあるが、どこに書いてあるかが見つけにくいのだ。
小見出しがあまり適切でなく、歴史と特徴と実例の記述が混在していて、ややこしい。

表にまとめてないから、一目では内容が分らない。
入母屋や切り妻のような初歩的基本用語(?)の説明が無い。
索引も無い。

つまり、持ち歩いて気軽に参照することは困難で、とてもハンドブックとはいえない。

◆ネットで補ってみたけれど
足りないところは、ネット検索で探す。
検索用のキーワードが豊富になったので、かなり有効なHPが見つかった。
しかし、結論を言えば、理解は進んだが、欲求不満も高まった。

昨年11月に訪れた『彦根城』の天守は、「どういう天守なんだろう?」
上の本で説明されている「天守」の構造や破風の分類のどれに当てはまるのか?
情報はバラバラに散らばり、しかも不完全だから、具体的な「天守」では迷宮入りだ。

『姫路城』は実例になっているから分るのだが、ほとんどの他の城の天守はダメだ。
文章も写真もイラストも、誰でも分るようにはなっていない。
「何でまともで具体的なな天守説明が無いんだよ?」というストレスだ。

◆自分で調べるしかない
とはいうものの、この前の『彦根城』紀行の写真も、ただ撮っただけのレベルだった。
とても『彦根城』天守を語る写真には使えない。特徴を掴む「視点」がない。
「視点」を定め、自分で調べるれば、納得できる写真が撮れる。

たぶん、3月中には『彦根城』天守紹介の速報版を公開できると思うので、乞御期待。
『岡山城』天守も紹介したい。天守巡りも城下町機構のテーマに加えよう。
「天守」が急浮上したけれど、城郭や城下町についても、同じ欲求不満を抱えている。

2011年02月17日

参考書~「城郭みどころ事典」

◆城郭みどころ事典(東国編)&(西国編)
お城について、なかなかよい参考書を2冊購入した。
先回紹介したNHK教育TVの「にっぽんの城」テキストの広告に載っていた。
西荻図書館の蔵書にあったので、閲覧して確認し、Amazonに注文した。

・城郭みどころ事典(東国編)72城
・城郭みどころ事典(西国編)83城
   西ヶ谷恭弘ほか編 東京堂出版 2003年 2,310円

城にもよるが、説明文は十分に役に立つ内容だ。
写真も多く、ポイントを押さえているので参考になる。
縄張り図もすっきりと描かれていて、分りやすいものが多い。

写真は、撮影場所が縄張り図にマークされていてありがたい。
サイズが小さく、不鮮明なものもあり、モノクロも多い、などに不満はある。
撮影の季節や時間帯などの簡単なアドバイスがあってありがたい。

◆城と城下町
全国155城を網羅して、平均的に扱っているため、悪しき平等が目立つ。
この種の本(100名城、城下町100選など、古地図散歩シリーズも)の共通の欠点だ。
紹介が十分過ぎる城もあれば、全く不十分な城もある。

ほとんどが2頁か4頁で、最大6頁(大坂城、彦根城、姫路城など)である。
1対10位の差をつけてもいいように思う。八方美人は、かえって不親切だ。
もっとも、多くの城を網羅的・平均的に掲載する方が、本の売上部数は上がるのだろう。

もうひとつ、お城の本だからやむを得ないが、城下町の紹介がきわめて薄い。
萩は城は目立たないが、城下町はすばらしく、津和野は小京都風の樹下町なのだが。
城の縄張り図が主で、城下町は原則対象外になっている。

◆さりながら
他の本などではよく分らなかったお城について、手ごたえのある情報を提供してくれた。
4,620円は妥当な買い物だった。
つぎの城下町紀行(4泊5日の予定で検討中)の楽しみがぐっと増えたのだから。

2011年01月25日

革新的な<城>番組 ~ NHK教育TV

◆革新的な<城>番組が始まっていた!
全く新しい<城>番組に感激した。
(シリーズの第1回は見逃し、第2回の再放送であった)

NHK教育TV
・直伝 和の極意 体感・実感! にっぽんの城
・2011年1月~3月
・毎週木曜日 22:00-22:25(再放送 翌週木曜日 13:05-13:30)
・テキスト 1,365円

さすがNHKであり、並みの<お城紹介>や<名所案内>番組とは、『質』が違う。
それぞれの武将が、どのような思いを込めて<城>を築き上げたかを追究している。
徹底した歴史背景と現地調査などによって、それがみごとに浮き彫りにされている。

放送時間はわずか25分だが、映像はとても充実している。
第2回「熊本城1」では、加藤清正の<城に込めた思い>が映像から伝わってきた。
時あらば、大阪城の豊臣秀頼を熊本に迎え、家康と一戦交えようという<思い>だ。

テキストがまたでき映えがいい。
写真は、プロの秀作で、特に熊本城編では、城の威容がド迫力で撮影されている。
撮影場所と方向が案内図上に示されていて、自分で撮影する場合のよい参考になる。

城の解説は、詳細かつ分り易く、他の解説書では得られない満足感を与えてくれる。
城にまつわる豆知識も豊富に掲載されていて楽しめる。
巻末には、上田城のペーパークラフトの付録まで付いている。

◆これからの放送に期待
初回は、姫路城であったが見逃してしまった。(天守閣は、大修理中)
次の第3回は、「熊本城~2」(再放送分を視る)だ。
以後、名古屋城、大坂城(2回)、仙台城、上田城&松代城(2回)、小谷城と続く。

実は、最後の2回では、山城(やまじろ)の縄張り図を作成する。
これはおそらくTVでは始めてのことで、きわめて価値の高い体験企画と思う。
木々に埋もれて残る戦国時代の山城跡には、平地の大きな城郭とは異なる趣がある。

放送を続けて楽しみたい。

2010年12月26日

堀部安兵衛とイタリア大使館

◆『blog歴史』再開
久しぶりに『blog歴史』を再開。
まずは、知る人ぞ知る、知らない人は知らない歴史の不思議。
NHK総合TVの「ブラ・タモリ」(第十回)で放映された。

<赤穂義士>と<イタリア大使館>という異色な組合せだ。
義士の一人の堀部安兵衛の名が出て、つい画面に引き込まれた。
安兵衛は、新発田出身ゆえ耳にかかったということ。

◆赤穂義士の討入りと切腹
元禄15年12月14日(1703年1月31日)、赤穂浪士47人が吉良邸に討入りした。
討入り後、47人はいくつかの大名屋敷に分散して預けられて、幕府の沙汰を待った。
元禄16年2月4日、幕府の命により、全員切腹となった。

◆イタリア大使館と大名庭園
東京・三田にあるイタリア大使館は、元禄当時、伊予・松山藩の中屋敷であった。
明治維新後、 松方正義公爵邸になっていたが、屋敷は昭和5年3月に焼失。
関東大震災後の都市計画を進めていた政府の要請で、昭和7年、大使館が現地に移転。

大使館建設にあたり、当時残されていた大名庭園を部分的に保存することにした。
現存する江戸の大名庭園としては、きわめて貴重な存在と云われている。
当時の大使の識見に感謝しなければならない。

◆安兵衛らは松山藩に
その松山藩に預けられたのが、大石主税、堀部安兵衛ら十名(*)の義士であった。
松山藩は義士の切腹の場所を堀り上げて池とし、土で築山を作り、慰霊したという。
イタリア大使も昭和10年頃に、義士のための立派な鎮魂碑を建立している。

*)大石主税(弱冠16歳)、堀部安兵衛、木村岡右衛門、中村勘助、菅谷半之丞、
千馬三郎兵衛、不破数右衛門、大高源五、貝賀弥右衛門、岡野金右衛門。

◆歴史の連鎖
これが、堀部安兵衛とイタリア大使館との関わりのエピソードである。
安兵衛:新発田藩 → 赤穂藩 → 討入り → 松山藩 → イタリア大使館。
まことに、不思議な歴史の連鎖ではある。

2008年04月04日

歴史の横道3 ~ 承久の乱と佐々木一族

◆承久の乱
1221年、後鳥羽上皇は倒幕の兵を挙げた。
この承久の乱で、佐々木一族は幕府方と朝廷方に分かれて争った、
保元・平治の乱における源氏の分裂を思い起こさせる。

◆佐々木一族の状況

◇承久の乱と佐々木一族◇

この時、佐々木5兄弟のうち、太郎定綱と三郎盛綱は既に没していた。
太郎定綱の長男は朝廷方、次男は幕府方。
次郎経高と子の高重は朝廷方。

三郎盛綱の長男は幕府方、次男は朝廷方。
四郎高綱は出家しており、子の旗幟は不詳。
五郎義清については不詳。

◆幕府方の勝利
承久の乱は幕府の完勝に終わった、
朝廷方に付いた佐々木氏は、いずれも自害しあるいは殺害された。
幕府方に付いた佐々木氏は、子孫に多くの支族を輩出する基となった。

◆佐々木信実の末裔新発田重家
三郎盛綱の長男・信実は幕府方で活躍し、加地庄に定着した。
その支族の末裔『新発田重家』は、戦国時代に激しく登場する。
重家の生きざまは、中央の歴史に抗する地方の歴史を鮮やかに映し出す。

 ◇ ◇ ◇

blog歴史は、舞台を戦国時代へスキップします。

歴史の横道3 ~ 承久の乱と佐々木一族

◆承久の乱
1221年、後鳥羽上皇は倒幕の兵を挙げた。
この承久の乱で、佐々木一族は幕府方と朝廷方に分かれて争った、
保元・平治の乱における源氏の分裂を思い起こさせる。

◆佐々木一族の状況
◇承久の乱と佐々木◇

この時、佐々木5兄弟のうち、太郎定綱と三郎盛綱は既に没していた。
太郎定綱の長男は朝廷方、次男は幕府方。
次郎経高と子の高重は朝廷方。

三郎盛綱の長男は幕府方、次男は朝廷方。
四郎高綱は出家しており、子の旗幟は不詳。
五郎義清については不詳。

◆幕府方の勝利
承久の乱は幕府の完勝に終わった、
朝廷方に付いた佐々木氏は、いずれも自害しあるいは殺害された。
幕府方に付いた佐々木氏は、子孫に多くの支族を輩出する基となった。

◆佐々木信実の末裔新発田重家
三郎盛綱の長男・信実は幕府方で活躍し、加地庄に定着した。
その支族の末裔『新発田重家』は、戦国時代に激しく登場する。
重家の生きざまは、中央の歴史に抗する地方の歴史を鮮やかに映し出す。

 ◇ ◇ ◇

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2008年03月29日

佐々木盛綱 ~ 7)承久の乱(願文山合戦)

◆「中央」の歴史と「地方」の歴史
教科書で習う歴史は「中央」の歴史である。
しかし、歴史は「中央」と「地方」があいまって作られていく。
そして「地方」の歴史は、個別に探求しなくては埋もれたままになる。

承久の乱に関わる加地庄の「地方」の歴史について述べる。
ひとつは、この乱の前哨戦となった願文山合戦。
2番目は、乱で幕府側・朝廷側に分裂して参軍した佐々木一族の明暗。

◆承久の乱の前哨戦
1221年、京の動きに呼応して、加地庄・菅谷寺を拠点に酒匂家賢が兵を挙げた。
60人ほどの小兵力であるが、幕府軍を背後から牽制しようとしたものである。
酒匂軍は、鎌倉から駆けつけた佐々木信実(盛綱の長子)に数日で鎮圧された。

 ◇ ◇ ◇

なぜ、菅谷寺(願文山明王護国寺)だったのか。
そこに歴史の隠れた妙がある。
偶然と必然の組合せの結果である。

①頼朝の叔父・護念上人が、偶然に加地庄に菅谷寺を建立した。
②佐々木盛綱が加地庄地頭に任ぜられた。(護念上人は盛綱にも叔父にあたる)
③加地庄の領家は大納言・坊門忠信で、後鳥羽上皇の母の縁戚。
④暗殺された三代将軍実朝の妻は、坊門忠信の妹。
⑤実朝と坊門家は菅谷寺を手厚く庇護した。
⑥酒匂家賢は坊門の家人。

 ◇ ◇ ◇

この願文山合戦は、承久の乱で幕府軍が最初に挙げた勝利となった。
信実は合戦後、越後守護・北条朝時の北陸軍に合流し、京へと向かった。
これらの功により、信実は佐々木加地氏の基礎を固めることになった。

次回は、承久の乱と佐々木一族のお話です。

2008年03月28日

佐々木盛綱 ~ 6)承久の乱(概要)

◆三代将軍実朝、暗殺される
1219年、源実朝が兄頼家の子・公暁に暗殺された。
その公暁も斬られ、幕府の実権は名実ともに北条氏(政子・義時)が手にした。
北条氏は京から、名目上の将軍を迎えることとし、幕府の継続を計った。た。

◆承久の乱
源氏が断絶で、政治の実権が朝廷に返上されると考えていた後鳥羽上皇は怒った。
鎌倉の動揺も見据えて、上皇は倒幕を決意する。
1221年、上皇は各地に宣旨を送り、主に西国からの兵を京に集めた。

鎌倉では、朝敵の汚名を恐れ、防衛戦を主張する御家人がほとんどだった。
しかし、大江広元の京へ攻め上るべし、との献言を受けた政子の「檄」で一変。
東国の御家人が一致団結し、大軍で京へ向かった。

◆幕府軍の勝利
戦いは幕府軍の圧倒的な勝利に終わった。
後鳥羽上皇は隠岐に配流となった。
承久の乱後、幕府の支配力が高まり、朝廷の皇位継承にも介入するほどになった。

次回は、承久の乱(別巻)として佐々木加地氏と乱の関係について述べます。

2008年02月27日

歴史の横道2 ~ 信実・祐経・範頼の人生いろいろ

◆盛綱の嫡男佐々木信実、勘当される
信実は、盛綱の嫡男で、やはり波乱に富んだ人生を歩んだ武将である。
頼朝の没後に取上げられた加地庄を回復し、佐々木加地氏の祖となった。
信実の若き日のエピソードを紹介する。

1190年、鎌倉で双六の会が催された。
信実(当時15才)は、父が頼朝の相手をしているのを側で見ていた。
そこへ、工藤祐経(すけつね)が入ってきた。

祐経は、信実を抱きかかえて脇へどかすと、そこに座った。
怒った信実は、庭から拾った石を祐経に投げつけ、ケガをさせてしまった。
頼朝は怒り、信実は出家して逐電した。

盛綱は祐経にも非があったと弁護し、祐経も事を荒げることがなかった。
結局、盛綱が信実を勘当することで一件落着した。
頼朝の面前での傷害事件であり、信実は命拾いをしたのであった。

◆工藤祐経、曽我兄弟に討たれる
1176年、祐経は所領で争っていた伊東祐親を狙ったが、誤って嫡男河津祐泰を殺害した。
河津祐泰には、二人の幼い男の子がいた。
兄弟は母の再婚先の曽我氏に育てられながら、仇討ちの機会を待っていた。

兄弟の祖父・伊東祐親は、源平の合戦で平家側についたが敗れ、自害した。
工藤祐経は最初から頼朝につき、御家人として寵愛されていた。
1193年、幕府開設の翌年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを催した。

この機を捉え、曽我兄弟は祐経の寝所を襲って討取った。
しかし、兄は祐経の郎等に斬られ、弟も捕らえられ死罪となった。
これが有名な「曽我兄弟の仇討ち」である。

◆源範頼、唇滅びて歯寒し
曽我兄弟の仇討ち騒動で、頼朝の消息が一時途絶えた。
鎌倉では、範頼が兄・頼朝の妻・政子に言った。
「範頼がおります。(ご安心下さい)」

これが謀反の心ありと疑われることになった。
範頼は伊豆へ幽閉され、やがて自害に追い込まれた。
雉も鳴かずば撃たれまい、とも言える。

 ◇ ◇ ◇

人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ