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2006年06月23日

歴史年表「平家の時代」編ができました。

たいへんお待たせいたしました。
ようやく、歴史年表ができました。
二部作の前半で、「平家の時代」編(第1版)です。

保元・平治の乱で台頭した平家は、栄耀栄華を極めます。
しかし、おごりの果てに壇ノ浦で滅びました。
まことに、盛者必衰の理といえます。

<歴史年表~平家の時代>

年表の形式は、ちょっと工夫してみました。
細かな年代は気にせず、平家の滅亡までを見渡せるかと思います。
加地庄との関わりをもつ佐々木盛綱、城氏が登場します。。

二部作の後半は、源氏が三代で滅びるまでです。
鎌倉時代初期には、加地庄との関わりが、多く出てきます。
平家物語の範囲は超えますが、その余韻を十分楽しめます。

年表作成の後、15~20回程度の連載で、歴史をたどります。
中央の動きの影響が、加地庄・新発田に及びます。
それが平家物語に載っていることに、すばらしさを感じるのです。■

2006年06月10日

平家物語と新発田の歴史

平家物語とともに新発田の歴史をたどる
かなり無謀なチャレンジをすることになりました
思いを固めたのは、4月中頃のことでした

◆発端は
そもそもは、新発田市郊外の要害山・加地城址が発端
子どもの頃、頂上に登って遊んでいたとき
土を掘ると黒い焼き米が出る、といわれていた

50年ぶりに訪れて、図書館でいろいろ調べてみた、そして分かった
約800年前、この城に源氏の佐々木盛綱が関わっていた
約400年前、その末裔の新発田重家が関わっていた

新発田の歴史といえば、溝口候の入封以来の400年が中心となっている
しかし、源平の合戦にも戦国の乱世にも、新発田には誇るべき歴史がある
それらを分かりやすくまとめてみよう、と思った

◆平家物語と藤戸神社(要害山中腹にある)
平家物語によれば、一の谷で敗れた平家は讃岐国屋島に居たが
備前国児島の「藤戸の瀬戸」で、源平両軍が対峙した
平家は沖の小島に船を連ね、源氏は浜に馬で寄せた

いかんせん、馬では瀬戸を渡れず、源氏は攻めあぐんでいた
そんなとき、佐々木盛綱が土地の漁師から耳よりな情報を得る
瀬戸を馬で渡れる浅瀬がある、と

他言を恐れて、盛綱はこの漁師を斬った

翌朝、盛綱は前夜調べておいた浅瀬に家子・郎党を率いて馬を乗り入れる
大将範頼の静止も聞かず、瀬戸を渡り切った
これを見て、源氏の大軍が後に続き、平家軍と大乱戦

夜、源氏は児島に引き、平家の船も沖に出て、屋島に引きあげた
平家は、まもなく屋島で破れ
ついには壇ノ浦で海に沈んだ

戦功を挙げた盛綱は、頼朝から恩賞を得て、加地庄の地頭にも任ぜられた
後に、加地城二の丸に、祖先と漁師の霊を祀る「藤戸」神社を建立した
また、児島庄も訪れ、源平両軍の犠牲者、漁師の霊を厚く弔ったという

◆源氏・平家と関わるできごと
①奥山庄(加地庄の北隣)の城氏が木曽義仲と信濃で戦い、敗れる
②佐々木盛綱、藤戸の戦いで戦功を挙げ、加地庄地頭となり、藤戸神社建立
③菅谷寺(菅谷不動尊)は、頼朝の叔父である護念上人が開基
④盛綱、護念上人を鎌倉へ伴い、頼朝に引きあわせる
⑤平家の城氏は赦されて奥山庄にあったが、後に鎌倉に叛き、これを盛綱が討つ
⑥承久の乱のとき、挙兵した酒匂家賢を、盛綱の嫡子信実が加地庄願文山で破る
⑦戦国時代末期、盛綱の子孫新発田重家が活躍

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次回より平家物語とともに新発田の歴史をたどります
いかなることになりますやら
お楽しみに。■