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第一部第1章保元・平治の乱(1)

第一部 平家の時代
 序~祇園精舎

   祇園精舎の鐘の声
   諸行無常の響きあり
   沙羅双樹の花の色
   盛者必衰の理(ことわり)をあらはす
   おごれる人も久しからず
   ただ春の夜の夢のごとし
   猛き者も遂には滅びぬ
   ひとへに風の前の塵に同じ

    ◇ ◇ ◇

 第1章 保元・平治の乱で平家一人勝ち
   1)保元・平治の乱とは
    ◆1156年(保元1) 保元の乱
 鳥羽法皇が、1156年に崩御しました。
     法王の権威で保たれていた均衡が破れ、乱が勃発します。

     この乱には、
      ①皇位継承をめぐる後白河天皇と崇徳上皇の争い
      ②関白藤原忠通と弟頼長の確執
      ③武家勢力の動向
      ④これらに乗ずる思惑
     などが、複雑にからんでいました。

     つぎの二勢力の間の戦いとなりました。
 ○後白河天皇方
  ・関白藤原忠通
  ・信西入道(後白河の側近)
  ・平清盛一門
  ・源義朝、義平親子
  
 ●崇徳上皇方(後白河天皇の兄)
  ・藤原頼長(藤原忠通の弟)
  ・源為義(義朝の父)親子(義朝を除く)
  ・平忠正(清盛の叔父)親子

 実は、平清盛一門の帰趨は微妙でした。
 崇徳上皇の皇子は、清盛の父忠盛の乳母子だったのです。
 上皇が勝って皇子が皇位につけば、清盛は天皇の乳兄弟です。

 忠盛・清盛は、低位の武門から鳥羽法皇に引立てられました。
 鳥羽法皇の遺志は、崇徳上皇を排除することにあったのです。
 清盛の決断は、故鳥羽・後白河の天皇方でした。

 清盛一門が天皇方について、実質勝負はつきました。   
 たった四時間の戦いで、上皇方は破れます。
 義朝は奮戦し、清盛はほどほどに付き合ったといわれます。

 為義親子は義朝に、平忠正親子は清盛に、斬首されました。
 藤原頼長は、敗走中に矢傷がもとで死亡。
 崇徳上皇は、四国の讃岐へ流されました。

  ◇ ◇ ◇

 乱が終ると、源氏は半減、平家はほとんど無傷の状態です。
 論功行賞は、清盛が播磨守、他の平家にも厚いものでした。
 義朝は左馬頭(軍馬管理の長)で、大きな差がついたのです。

◆1159年(平治1) 平治の乱
 保元の乱後、政治の実権は信西入道が掌握しました。
 財力のある平家は、内裏造営などで着々と実績を挙げます。
 また、信西の筋書き通り、後白河天皇が二条天皇に譲位します。

 権力をふるう信西に、反感が募り、再び危機が生じます。
 中心は後白河の寵臣藤原信頼で、義朝と組み、機会を窺います。
 清盛の熊野参詣の隙にクーデターを起し、信西を殺害しました。

 しかし、戻った清盛の巧みな戦略で信頼・義朝は孤立します。
 幽閉されていた上皇・天皇も、清盛の機略で救出されます。
 賊軍の義朝は破れ、逃亡中に暗殺され、信頼も斬首されました。

◆二つの乱の後
 平家の外は全て消滅、あるいは権威や権力を失いました。
 平家の一人勝ちです。
 そして一門は、栄耀栄華へと一気に上りつめるるのです。