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第一部第1章保元・平治の乱(2)

 第1章 保元・平治の乱で平家一人勝ち
   2)清盛、頼朝を助命し伊豆に配流
   
  ◆頼朝捕らわれる
   頼朝は、平治の乱(1159.12)で父義朝に従い、初陣を飾った。
   このとき、頼朝13歳(数え、1147.04生)。
   しかし、平家に敗れ、父兄弟と東国へ向かう。
 
   次兄頼長は、乱での傷のため美濃で自害。
   父義朝は、尾張の宿泊先で騙し討ちに遭った。
   長兄義平は京へ戻り、清盛暗殺を狙ったが、捕らわれて斬首。
 
   頼朝は雪の中で一行にはぐれ、さらに落ちのびたが、
   翌年2月、尾張で捕らえられ、六波羅に送られた。
   源氏の嫡流であり、当然、斬首となるところである。
 
  ◆頼朝の助命
   清盛は、頼朝を斬らなかった。
   継母池の禅尼(父忠盛の妻)の助命嘆願のためとされる。
   果たしてそれだけであったろうか。
   
   このときの清盛は、保元の乱に続き、平治の乱で快勝したところ。
   情勢判断、人物の見分け、決断力などで、冴えに冴えていた。
   その清盛が、頼朝を見据えた。
 
   凡庸あるいは野卑な印象であったら、斬らせたであろう。
   生かしておく価値がないといえるから、
   むしろ宿敵源氏へのはなむけともなる。
 
   頼朝には、すでに風格、気品があったのかもしれない。
   母は熱田大神宮の大宮司の娘で、その血筋の良さも感じさせたか。
   ただ者ではない!
 
   清盛にはそれが見えてしまったのかも。
   だから斬らせなかった、いや、できなかった。
   頼朝は助命、伊豆へ配流とされた。
 
  ◆清盛の決断
   清盛の決断は、
   平家にとっては、誤りであった。
   歴史にとっては、正しかった。
 
   頼朝は、ちょうど20年後(1180)、平家打倒の旗を挙げた。
   清盛は、「恩を忘れて、当家に弓を引くとは」と怒った。」
   翌年清盛は病死、まもなく平家は壇ノ浦で滅ぶ(1185)。
 
   頼朝は、日本の古代を終わらせ、中世の先駆けをなした。
   命拾いした若武者が、長じて貴族政治から武家政治へと歴史を変えた。
   清盛の決断の賜物である。
 
  ◆頼朝の報恩
   「恩知らず」と清盛にいわれたが、頼朝は恩を立派に返している。
   合戦後、洛北に潜む平家嫡流の六代が、北条時政に捕らえられた。
   この時、六代(清盛-重盛-維盛-六代)は10歳位で、斬首の運命。
   
   鎌倉へ護送の途中、駿河の千本松原でまさに斬られようとしたとき、
   文覚上人の助命嘆願を受入れた頼朝の書状が、時政に届く。
   「六代を上人に預けるように」と書かれていた。
 
   頼朝は、六代と自らの助命をどう重ねあわせていたのだろうか。
   その後も平家の残党狩りは厳しく続けられ、多くが平家が斬られた。
   六代は、頼朝生存中は無事で、その死(1199)後、斬られてしまった。