第2章~1)平家にあらざれば 人でなし
第2章 栄耀栄華
1)平家にあらざれば 人でなし
◆清盛、太政大臣となる
清盛は、保元・平治の乱で、天皇方の勝利に貢献し、手厚い恩賞を受け、昇進を重ねた。
1167年(仁安2)には、ついに、太政大臣になった。
しかし、病のため、太政大臣を辞し、翌年の1168年(仁安3)に、51歳で出家した。
そして、1181年(養和1)に64歳で病没するまで、独裁者として君臨する。
清盛自身だけでなく、一門も揃って栄えた。
平時忠ののたまわく、『この一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし』と。
嫡子重盛は内大臣左大将、次男宗盛は中納言右大将、三男知盛は三位中将、嫡孫維盛は四位少将。
しかるべき家柄でもないのに、兄弟で左右の大将を占めるのは、前代未聞といわれた。
その他多くの公卿・殿上人もおり、六波羅の公達(きんだち)と呼ばれた。
彼らは、位階によって禁じられた色を、宣旨を得て使用し、華美な衣装を身にまとった。
こうした公達にあやかろうと衣装・振舞を真似るのがはやった。
六波羅族とでもいうべきか。
◆禿髪(かぶろ)
権力者の悪口を陰で言うのは、世の常である。
が、清盛全盛の時は、それがなかった。
禿髪(かぶろ)という清盛の私兵組織があったからである。
「禿髪」とは、14~6歳の少年300人を組織し、
髪を「禿髪」に切りそろえ、赤い直垂(ひたたれ)の姿で、
京の街の中をパトロールさせたものである。
たまたま平家の悪口をいう者を見つけると、仲間を呼び集め、その家に乱入し、
家財を没収、当人を縛り上げて六波羅へ引き立てる。
そのため、だれもが平家の横暴を見て見ぬふり、口にしなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
中国の文化大革命(1966年~)のとき、紅衛兵というのが登場した。
毛沢東思想を批判する者は、紅衛兵に摘発される。
罪状を書いた板を首に下げ、公衆の前で自己批判、職を追われ、僻地で重労働を課せられた。
◆栄耀栄華
平家は、全国66ヶ国中、30余を知行国にした。
権力も、位階も、財力も平家一門に集中した。
それは、いっそうの「おごり」への始まりであった。
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