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2008年01月24日

歴史の横道1 ~ 佐々木盛綱と加地庄(新発田)

◆佐々木盛綱は源氏の武将
佐々木盛綱は、源平の合戦で活躍した武将である。
盛綱の父・秀義は、近江国(滋賀県)佐々木庄に拠を置く源氏であった。
母は源義朝の妹で、盛綱と頼朝とは従兄弟の関係にある。

◇佐々木盛綱の系譜◇

1159年、父・秀義は平治の乱で、義朝とともに平清盛と戦い敗れた。
奥州へ逃れる途中、相模国で渋谷氏に引き止められ、庇護を受けた。
1180年、伊豆へ流されていた頼朝が挙兵した時、盛綱ら四兄弟が馳せ参じた。

以来、盛綱兄弟は頼朝に従い、平家との合戦で活躍する。
四郎高綱は宇治川の先陣争いで、三郎盛綱は藤戸合戦(1184)で名を挙げた。
いずれも平家物語に登場する。

◆盛綱と新発田の縁
盛綱は、藤戸合戦で大手柄を立て、恩賞で各地の守護・地頭の職を得た。
その中のひとつが、加地庄(新発田)の地頭職である。
盛綱は加地庄に、特に強い関わりを持つことになる。

・加地城を築く
・叔父にあたる護念上人が隣接の菅谷庄に菅谷寺開基
・斬った漁師の鎮魂のため、城内に藤戸神社を建てる(1190?)
・鎌倉で護念上人を頼朝に引き合わせる(1191)
・北隣の奥山庄・城資盛の乱を鎮圧(1201)

◆盛綱の子孫
盛綱の嫡子・信実は、加地庄に定着し、佐々木加地氏を名乗ることとなった。
佐々木加地氏からは、新発田・五十公野・竹俣・楠川の傍系各氏が派生した。
これら各氏は、戦国時代の北越後の激動の中で大いに武勇を競った。

◆末裔・新発田重家
特に、新発田重家は勇猛果敢、上杉景勝と激しく戦い、『新発田』の名を高くした。
現在の新発田城址の古丸辺りに城を築いていた。
1585年、攻め寄せる景勝の大軍に重家の新発田城は落城した。

◆溝口氏の新発田へ
1198年、上杉氏は秀吉の命により、越後から会津へ移封となった。
新発田へは、越前から溝口氏が入封した。
江戸幕末まで、新発田は溝口藩の城下町として栄えることとなる。

2008年01月17日

源平の合戦 ~ 馬が船に勝った藤戸合戦

第4章 源平の合戦

7)馬が船に勝った藤戸合戦

◆めまぐるしい動き
1183年、木曽義仲が京に入り、平家は都落ちした。
1184年、範頼・義経軍が京に迫り、義仲と戦い、義仲は敗死した。
範頼・義経は、福原(神戸)に構える平氏を討つべく京を出立する。

◆平家は屋島に、源氏は西へ
平家をを攻める源氏は、一の谷合戦で大勝利をおさめた。
このとき、義経は坂落しの奇襲をかけた。
合戦で平家は多くの武将を失い、四国讃岐の屋島へ退いた。

◆備前・藤戸の瀬戸で源平対峙
屋島の平家を横目に、源氏は陸路を馬で西進する。
平家は海から船で牽制する。
やがて両軍は、備前・藤戸の瀬戸を挟んで対峙した。

片や陸の源氏、片や小島に船で陣取る平家。
船を持たない源氏は、平家を攻める術(すべ)がない。
いたずらに朱鷺が過ぎ、大将軍範頼も困り果てた。

◆盛綱、漁師から情報を得る
この苦境に、佐々木盛綱が貴重な情報を入手した。
土地の漁師から、引き潮時に小島へ渡る浅瀬のあることを聞き出した。
その漁師に案内させて、夜陰にまぎれて浅瀬を確認した。

盛綱は明日の戦いで手柄をたてることができると考えた。
もし、この漁師が他の者にこの情報を漏らしたら、手柄はふいになる。
そして、口封じのために漁師を斬った。

◆源氏、馬で海を渡り、平家また敗れる
次の日、浜に現れた盛綱は家の子郎等と共に、引き潮の浅瀬に馬を乗り入れ、対岸へと渡り始めた。
これを見た範頼は、「あれを止めよ」と命じた。
土肥実平が追って「大将軍のお許しがない。お戻りなされ」と呼びかけた。

盛綱は耳を貸さず、渡り続ける。
実平も止めかねて、やがて付いて渡り始めた。
範頼は、「浅瀬だったぞ。渡れ渡れ」と命じた。

あわてた平家は船をそろえ、矢を射掛けて防戦したが、源氏は次々と押し渡る。
1日戦い、夜に平家は沖に退き、源氏は陸へ戻って息を休めた。
平家は屋島へ漕ぎ下がっていったが、船のない源氏は追うことができなかった。

◆盛綱、頼朝に褒められる
「馬で川を渡った武将はあるが、馬で海を渡ったのは、稀代のことである」
頼朝は盛綱の軍功を最大限の賛辞で讃えた。
そして児島庄を盛綱にあたえた。

2008年01月12日

第4章 源平の合戦 ~ 3)城長茂、義仲に敗退

3)北越後の城長茂、北信濃で義仲に敗退

◆付け焼刃の対義仲対応
平家のおごりに人心は離れ、各地で源氏が蜂起した。
1181年、清盛入道が死去し、平家は求心力を失った。
後を継いだ次男・宗盛には、この難局を乗り切る指導力に欠けていた。

宗盛は、後に平家の総大将として源氏と戦ったが、壇ノ浦で破れ、生け捕りになった。
鎌倉まで引きたてられ、頼朝に対面したが、やがて斬られた。
嫡男・重盛が存命であったら、歴史は別の展開をしたに違いない。

信濃国の義仲を討つため、平家は北越後の城助長を越後守に任命した。
城氏は、奥州征伐に従軍した平氏の一族で、北越後の奥山庄に拠点を置いていた。
北越後一帯になかなかの勢力を誇っていた。

京の平家一門ではなく、助長を急遽取り立てて義仲にあたらせようとしたのである。
いわば付け焼刃の人事であったが、感激した助長は軍勢を率いて出陣する。
が、城を出てまもなく、にわかに起った黒雲に覆われ助長は落馬。

それがもとで助長はあえなく死んでしまった。
1183年、助長の弟助茂が越後守に任じられ、長茂(ながもち)と改名した。
兄の不幸な死もあり辞退したが、勅命でやむなく受けたのであった。

◆長茂、北信濃で義仲に敗退
長茂は、出羽・越後・会津の兵を率いて、木曽義仲追討のため、信濃国へ向かった。
北信濃の横田河原に大軍の陣を張った。
迎え討つ小勢の義仲は策略を用いた。

兵を七手に分け、平家の赤旗を掲げて長茂陣に近付いていった。
長茂は、「信濃にも平家の味方がいるのか」と思い込んだ。
十分近付いてから、源氏の白旗に差し替えて、襲いかかった。

不意をうたれて長茂軍は総崩れになって敗走した。
しかし、都では平家がこともなげに華やかな行事に明け暮れていた。
人心はますます源氏に傾いていった。

 ◇ ◇ ◇

「平家物語」の巻第六「嗄声」、「横田河原合戦」から編集。
ここに登場する城氏の居所の奥山庄は、加治庄(新発田)の北隣にある。
平家滅亡後、城氏は頼朝に赦されて、奥山庄は安堵となった。

また、この後の藤戸合戦で軍功を挙げた佐々木盛綱は、やがて加治庄の地頭になる。
1201年、鎌倉に叛いた城氏と幕府軍の総大将に任ぜられた盛綱が戦うことになる。
そして、歴史に翻弄された城氏は滅亡した。