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第4章 源平の合戦 ~ 3)城長茂、義仲に敗退

3)北越後の城長茂、北信濃で義仲に敗退

◆付け焼刃の対義仲対応
平家のおごりに人心は離れ、各地で源氏が蜂起した。
1181年、清盛入道が死去し、平家は求心力を失った。
後を継いだ次男・宗盛には、この難局を乗り切る指導力に欠けていた。

宗盛は、後に平家の総大将として源氏と戦ったが、壇ノ浦で破れ、生け捕りになった。
鎌倉まで引きたてられ、頼朝に対面したが、やがて斬られた。
嫡男・重盛が存命であったら、歴史は別の展開をしたに違いない。

信濃国の義仲を討つため、平家は北越後の城助長を越後守に任命した。
城氏は、奥州征伐に従軍した平氏の一族で、北越後の奥山庄に拠点を置いていた。
北越後一帯になかなかの勢力を誇っていた。

京の平家一門ではなく、助長を急遽取り立てて義仲にあたらせようとしたのである。
いわば付け焼刃の人事であったが、感激した助長は軍勢を率いて出陣する。
が、城を出てまもなく、にわかに起った黒雲に覆われ助長は落馬。

それがもとで助長はあえなく死んでしまった。
1183年、助長の弟助茂が越後守に任じられ、長茂(ながもち)と改名した。
兄の不幸な死もあり辞退したが、勅命でやむなく受けたのであった。

◆長茂、北信濃で義仲に敗退
長茂は、出羽・越後・会津の兵を率いて、木曽義仲追討のため、信濃国へ向かった。
北信濃の横田河原に大軍の陣を張った。
迎え討つ小勢の義仲は策略を用いた。

兵を七手に分け、平家の赤旗を掲げて長茂陣に近付いていった。
長茂は、「信濃にも平家の味方がいるのか」と思い込んだ。
十分近付いてから、源氏の白旗に差し替えて、襲いかかった。

不意をうたれて長茂軍は総崩れになって敗走した。
しかし、都では平家がこともなげに華やかな行事に明け暮れていた。
人心はますます源氏に傾いていった。

 ◇ ◇ ◇

「平家物語」の巻第六「嗄声」、「横田河原合戦」から編集。
ここに登場する城氏の居所の奥山庄は、加治庄(新発田)の北隣にある。
平家滅亡後、城氏は頼朝に赦されて、奥山庄は安堵となった。

また、この後の藤戸合戦で軍功を挙げた佐々木盛綱は、やがて加治庄の地頭になる。
1201年、鎌倉に叛いた城氏と幕府軍の総大将に任ぜられた盛綱が戦うことになる。
そして、歴史に翻弄された城氏は滅亡した。