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佐々木盛綱 ~ 2)藤戸神社を建立

◆藤戸を訪れる
盛綱は、藤戸の合戦で大手柄をたてた。
その縁もあって、備前国児島庄の地頭にも任じられていた。
平家滅亡(1185年)の3年後?に藤戸を訪れた。

盛綱は当地にある藤戸寺で、源平合戦の戦死者を弔う法要を行った。
それは源氏・平家の別のない慰霊の式であった。
盛綱はそうした心優しい人柄の武将であった。

◆斬られた漁師の母の恨み
その法要で盛綱は、一人の老婆に問い詰められる。
「私の息子は、合戦の前の晩に家を出たきり帰らなかった。
うわさでは源氏の武将に斬られたというが、お前様が手にかけたのか」

盛綱は、あの時に功名心から漁師を斬ってしまったたことを後悔していた。
老婆が漁師の母であると知り、心より詫びた上で、住居と土地を与えることとした。
それでも、漁師の母の恨みは、息子の命を奪った盛綱に会ってさらに増した。

「佐々木」憎けりゃ「笹」まで憎い。
近くの山の笹を残らず抜いて、3年で根絶やしにしてしまった。
この山はその後「笹無山」と呼ばれるようになったという。

◆藤戸神社を建立
この逸話は能や謡曲などの題材となり、盛綱は非情の悪玉とされてしまった。
しかし、盛綱は漁師の慰霊のために藤戸神社を建立(1191年?)しているのである。
神社は当初は要害山の加地城二の丸にあり、後に現在の中腹に移された。

神社には、祖である宇多天皇と大国主命を祀り、藤戸の漁師を合祀した。
以来、800年を越えて地元で護り続けられている。
平成2年、漁師の子孫の方が神社を訪れ、盛綱の心情を知って感動されたという。