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佐々木盛綱 ~ 1)加地庄地頭となる

◆頼朝との血縁
盛綱の父・秀義は、近江国(滋賀県)佐々木庄に拠を置く源氏であった。
母は源義朝の妹で、盛綱と頼朝とは従兄弟の関係にある。
義経と範頼は頼朝に粛清されたが、御家人として縁者・盛綱は重用された。

◆源平合戦での手柄
盛綱は、藤戸合戦で大手柄を立てた。
恩賞で、伊予/讃岐の守護、備前藤戸庄/上野磯部郷/越後加地庄の地頭職を得た。
頼朝による大抜擢といえる。

藤戸庄は、盛綱が大手柄を立てた合戦の場で、後に訪れて鎮魂の式典を催した。
磯部郷では、盛綱が不遇期の数年を過し、墓(夫婦の五輪塔)も当地の松岸寺にある。
加地庄では、長子・信実が佐々木加地氏を名乗り、子孫は大いに活躍した。

 ◇注)
  1185年、頼朝は平家滅亡後、武家政権確立のため全国に守護・地頭を置いた。
  守護・地頭とはどういうものかを、Netで調べたが、実はよく分からない。
  ただ「泣く子と地頭には勝てぬ」という位なので、地頭には実権があったようだ。

◆加地庄地頭となる
地頭になった盛綱は、加地庄の要害山上に加地城を築いた。
手柄の元の情報の口封じで斬った漁師の慰霊のため、城内に藤戸神社を建てた。
加地城跡は往時を偲ばせ、神社は歴史を越えて地元に護られ毎年祭りも行われる。

盛綱が、とりわけ加地庄に思い入れを持ったのはなぜであろうか。
近江で生まれ、相模で育ち、西国で平家と戦った武将が、なぜ雪国・加地庄なのか。
広大な湿地が拡がっていた加地庄は、この武将の目にどう映っていたのだろうか。