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佐々木盛綱 ~ 4)鎌倉幕府の成立

◆鎌倉幕府の成立と頼朝の死
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす。 諸国に守護・地頭を置く。
1189年、頼朝、弟義経を討ち、藤原氏も滅ぼす。
1190年、平氏が焼失させた奈良・東大寺を再建。

1192年、頼朝の征夷大将軍任命に反対していた後白河法皇が崩御。
1192年、頼朝、征夷大将軍に任ぜられ、幕府を開く。
1199年、頼朝が急死。

◆頼朝後の混乱
頼朝の死は、鎌倉幕府内に動揺を与えた。
後継の頼家は、父のような政治力はなく、独断専行の性癖で御家人達の信を損なった。
批判のホコ先は頼家側近の梶原景時に向けられ、景時は失脚し、やがて暗殺された。

佐々木盛綱は頼家に疎まれ、守護などの要職を奪われ、上野国・磯部庄に隠棲した。
頼朝の存命中とは雲泥の差である。
しかし、歴史の流れは不思議で、盛綱を再び合戦の場に引出すことになる。

◆鎌倉・京・北越後
頼朝と梶原景時の死は、北越後・奥山庄の城長茂に衝撃を与えた。
長茂は、平氏として源氏と戦ったが赦されて、引き続き奥山庄に在った。
梶原景時の庇護があったお陰である。

二人を失い、頼家や北条氏の動向から、追討される危険を感じたのであろう。
また、源氏を倒すチャンスに見えたのかもしれない。
城長茂は京で源氏追討の勅命を得ようとしたが失敗する。

次回は、城氏の叛乱と盛綱率いる追討軍の北越後での合戦について述べます。