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佐々木盛綱 ~ 5)城氏の叛乱と盛綱

◆城氏叛乱
1201年2月、城長茂は京で鎌倉幕府打倒を画策する。
しかし、朝廷からの勅許を得られず、幕府の軍に追われた。
吉野まで逃れたが、あえなく敗死し、首は鎌倉に送られた。

一方、国許の北越後・奥山庄で、長茂の甥・資盛が挙兵する。
櫛形山脈の北端の山城・城取山(白鳥山)城を拠点に構えた。
その勢いはかなりのもので、越後・佐渡の幕府軍を手こずらせた。

◆盛綱、討伐軍の総大将に
幕府は、急遽、佐々木盛綱を討伐軍の総大将に任命する。
この時、盛綱は出家し、上野国・磯部郷に隠棲していた。
その盛綱に白羽の矢が立った。

加地庄が奥山庄の南隣であったことによるものか。
また、源平合戦における実績に期待したものか。
あるいは、京の不穏な動への備えを主にして、越後を盛綱に託したのか。

理由が何であれ、盛綱は即刻行動を起こした。
頼朝側近の御家人の「いざ、鎌倉」という血が沸き立ったのかもしれない。
険しい上越国境の山路を越えて、加地庄へ急行した。

◆戦いと城氏滅亡
盛綱は、軍勢を二手に分け、櫛形山脈の東側と西側を北進する。
資盛軍を追って、やがて鳥坂城を包囲した。
1201年4月、激しい攻防戦の末、城は陥落し、城一族は滅亡した。

この戦いで、資盛の叔母・板額(飯額?)が活躍する伝説がある。
寄せてくる盛綱の幕府軍に強弓を引いては矢を射かけ、大いに悩ませた。
落城後、板額は捕らえられ鎌倉に送られたが、武勇により助命されたという。

◆そして
乱の平定後、盛綱は再び加地庄を与えられた。
長子・信実はこの地に定着し、やがて「佐々木加地」氏を名乗ることになった。
1216年、盛綱は死去、磯部郷の松岸寺に葬られた。

次回は、承久の乱(1221)と佐々木加地氏の関わりについて述べます。