時代 | 権力者 | 状況 | できごと | 加地庄関連 | |
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平安時代 | * | 1156 | 保元の乱(天皇上皇、公家、武家集団が入り乱れて戦う)。 | * | |
一人 勝ち |
保元の乱では、源氏は親子兄弟等が敵味方で戦い、平家は清盛がまとめて勝利。清盛播磨守。後白河の院政始まる。三年後の平治の乱では、源氏で残った義朝親子が清盛に敗れた。 | * | |||
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1160 | 源義朝死、頼朝伊豆に流される。 | * | |||
平清盛 | 栄耀 栄華 |
清盛は、保元・平治の乱で共に天皇側に立って勲功を挙げ、厚い恩賞を受け、
以後、昇進を続けた。全国六十六箇国中、三十箇国余を支配し、一門は栄耀栄華に酔い、「平家にあらざれば人でなし」の状況であった。 1167 清盛、太政大臣。 1168 清盛、病いのため、太政大臣を辞し、出家。 |
佐々木三郎盛綱ら四兄弟、頼朝を支える。 | * | |
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1170 | 重盛の次男資盛が摂政基房とトラブル。清盛怒り報復。世の乱れの始まりとされる。 | * | |||
おごり と かげり |
1172 清盛の女徳子、高倉天皇の中宮となる。(建礼門院、安徳帝の母)天皇の外戚の地位を手中にした。 こうした専横ぶりに世の不満も高まる。 1177 平家打倒の密議が鹿谷で行われる。しかし、密告により露見し、関与者は厳しく処罰された。 清盛の怒り収まらず、後白河法王を幽閉しょうとして、重盛に諫められる。 1179 重盛はおごる平家の行く末を案じつつ、病いに倒れ、死去(42)。 清盛は、クーデターを起こし、多くの公家の官職を奪い、流罪にし、法王を幽閉した。 |
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1180 | 以仁王・源頼政挙兵、宇治で敗死。義仲、頼朝挙兵。平重衛南都焼打ち。 | * | |||
* | 源平 合戦 |
1181 清盛没(64)。 1183 平家、木曽義仲に破れ、都落ち。義仲、京に入る。 平家、屋島に移る。 1184 義仲、義経らに破れる。(宇治川の先陣争い) 平家、一ノ谷合戦に敗れる。 藤戸合戦、騎馬の源氏が平家の水軍を破る。 |
1181 北越後の城助長、義仲追討に向かうも途中で死去。 後継の城助職、信濃で義仲に破れる。 1184 盛綱、藤戸合戦で軍功。 |
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1185 | 平家、屋島で破れ、壇ノ浦で滅亡。頼朝、清盛の嫡曾孫六代を助命。 | * |