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2009年10月20日

文化立国への道(承の巻)

◆文化立国の三題噺
え~、文化立国の三題噺を一席。
お題は、<地方主権の確立>、<地方文化の再生>、<地方で保育・教育>。
いずれも<地方~>で、これらを織り込んだストーリー。

・中央集権の官僚制を地方主権に変革し、
・地方や地域の伝統ある文化を再生し、
・その環境で次世代の子供達を保育・教育する。
‥‥ おあとがよろしいようで。

◆地方主権の確立
中央集権の官僚統制は、「経済」中心の産業社会に都合が良い国家体制。
明治維新以来、敗戦を越えて、現在まで維持されてきた。
1990年のバブル崩壊は、その国家体制の崩壊の予兆でもあった。

社会変革の動きは、1993年の細川政権を成立させたが、政治力学の作用で頓挫した。
以後、自民党が実質的に政権の座にあったが、「経済」の再生はできなかった。
小泉改革と挫折、米国発の金融バブルの崩壊、日本の輸出依存経済の破綻、と続く。

8月の総選挙では、社会の変革を求める国民の意思が、民主党に勝利をもたらした。
鳩山政権には、地方主権をぜひ実現するよう期待したい。
ただ、<友愛+地方主権>では、日本再生の具体像が見えないのは、気にかかる。

<中央集権+「経済」>の経済立国では、地方は疲弊し、都市部をも不況に沈めた。
経済立国では、多様な【文化】を破壊し、単純化で成長をしたが、その限界がきた。
成長社会では、単純化=効率的だが、一角が破綻すると連鎖的に全体まで破綻する。

<地方主権+【文化>の文化立国は、元々は多様であった地方から日本を再生する。
文化立国では、地方の多様な【文化】で多様な人材を育成する。
成熟社会では、多様化=安全・安定・安心で、一角が破綻しても他がそれを補う。

既に述べたように、文化立国における地方とは、非・道州制である。
当面は、都道府県を残し、全国で300位の文化圏が散在するのが理想的だ。
(まもなくの臨時国会、所信表明演説で首相は国民に何を語るのであろうか)

◆地方文化の再生
地方には、日本の【文化】を再生する要素がそろっている。
自然、伝統、歴史、特産品、美味、名所旧跡、行事・慣習、方言、伝説、人 ‥‥。
【文化】の再生は、活動的な生活圏としての<文化圏>の再生でなければならない。

各地には、地域の特性を名称にしたいろいろな施設が存在している。
~郷、~里、~村、~国、~ランド、~~、‥‥。
しかし、主に観光目的の<文化圏もどき>が多いようだ。

文化圏では、自らの【文化】で日常生活を営む。
文化圏では、自らの【文化】で人を育て、【文化】を継承する。
文化圏では、自らの【文化】を外部へ発信し、他圏の【文化】に敬意を払う。。。

文化圏では、自然を守り、ふるさとの風景を保つ。
文化圏では、地産地消、省エネ、エコ生活を実践する。
文化圏では、郷土の歴史・風土を住民が学び、小中学校教育で必修化する。

文化圏では、伝統農法水田耕作(大型農機、農薬、化学肥料を使わない)を再生する。
文化圏では、伝統農法水田耕作を、小中学校教育で必修化する。
文化圏では、伝統的な工芸、農芸、漁法、芸能、行事、味覚などを保全する。

文化圏では、保育・教育環境を整備し、子育て世代の移入を図る。
文化圏では、医療・福祉・介護環境を整備し、高齢者の移入を図る。
文化圏では、農業、農工芸などの起業家支援で、志願者の移入を図る。

文化圏では、一般観光客、長期滞在者、外国人観光客をもてなす環境を整備する。
文化圏では、IT環境を整備し、携帯電話などに地域情報(多言語)を配信する。
文化圏では、脱車社会で、自家用車に依存しない移動手段を整備する。

(こんな文化圏があったら、座布団十枚差上げたい)

◆地方環境での保育・教育
文化立国では、【文化】による創造力ある人材の育成が目標となる。
多様な【文化】で多様な人材を、幼少時から育成するのである。
そのためには、地方の【文化】の再生が欠かせない。

これまでの経済立国=技術立国では、知識教育に大きく偏っていた。
幼少時から知識と解法テクニックの詰め込みが重視されてきた。
問題発見よりも、与えられた問題を解く教育であり、創造力開発の教育ではない。

文化立国では、問題発見志向の創造力教育を地方の多様な【文化】に託す。
さらに一歩進めて、自然の中で子供を育てる保育・教育を、地方再生の事業にする。
最適な教材として、その地方の伝統農法による水田耕作を再生し、活用する。

 ◇ ◇ ◇

水田耕作は、千年以上に渡って日本中のほぼどこでも行われてきた。
水田耕作は、気候、地形、水利、土壌、歴史、行事、慣習などと深い関わりがある。
それらの関わりにおいて、日本人の資質が、共通性と独自性をもって醸成されてきた。

つまり、各地の伝統農法には、それぞれ独自な【文化】が包含されている。
機械化された現代農法は、画一的であって、地域特性はほとんどない。
【文化】の再生には、まず、各地の伝統農法を再生、学習することが効果的だ。

伝統農法に触れて育つ子供は、まさに日本の【文化】の源泉を浴びることができる。
自然の豊かさ、自然との共生、農作業の厳しさ、仕事の段取り、読みと決断力、‥‥
生命観、収穫の歓び、共同作業、勤勉さ、経験の重さ、失敗と反省、自己責任、‥‥

教室では得られない実体験の世界が、目の前で展開していく。
自然の中で生活し、遊びながら、体験を子供心に沁みこませるのだ。
明らかに、経験豊富な高齢者は、最も優れた実践的指導者(教師)になる資格がある。

2009年10月18日

文化立国への道(起の巻)

◆【文化】ルネサンス
今、実行すべきは、15~20年を展望する【文化】ルネサンス。
地方の【文化】を再生し、地方で人材を育て、次世代の社会を託す。
【文化】が創出する人的資源で文化立国を実現するのである。

◆田舎の感覚 vs 都会の感覚
北海道で演劇塾を運営する倉本聡さんが、いつか新聞誌上で書いていた。
「大災害が発生したとき、身辺にまず必要なものは何か?」と問うた。
塾生は、「水」、「火」、「食べ物」などと答えた。

同じ問いを、東京の若者にした。
彼らは、「ケータイ」、「キャッシュカード」などと答えた。
う~む。

若者の大部分が都会で育ち、都会に住んでいる我が国。
こうした若者が、たとえば技術開発を担当したら、どんな発想をするのだろうか。
ゴテゴテの機能の付いた携帯電話や家電製品ばかりを創り出すに違いない。

生き物としての人間の感覚を失わせる都会の環境。
倉本さんの話は、我々の社会が既に危険水域に入っていることを暗示しているのではないか。
‥‥ 田舎に帰らねば。

◆自然と親しみ【文化】で子育て
自然と共生する地方の【文化】環境(=田舎)で、子育てをするのがいい。
その心は、『素朴な自然で、質素に暮らし、豊かな感性の子供を、健やかに育てる』。
‥‥ どこかの小学校の校歌みたいだ。

◆文化立国のイメージ(ユートピア風)
文化立国では、全国の津々浦々の文化圏から【文化】を発信する。
文化立国では、地域・伝統・歴史の時空を越えて交流し、新たな【文化】を創出する。
文化立国では、子供達が遊び、高齢者も働き、安定・安心の生活を楽しむ。

文化立国では、【文化】で人材を育てる。
文化立国では、【文化】を世界に輸出する。
文化立国では、【文化】を求める人達を世界から招く。

文化立国では、中堅・中小・零細企業が地方経済を担う。
文化立国では、先端技術分野の研究開発型企業を優遇・育成する。
文化立国では、大企業の海外市場開拓を外交・通商政策で支援する。

文化立国では、大量生産・大量消費・大量廃棄の経済を排除する。
文化立国では、伝統的な農業、林業、漁業、工芸、芸術を、手厚く保護・育成する。
文化立国では、公共事業ではなく、文化事業に国の財源を配分する。

‥‥ まるで、文化立国党(?)のマニフェストみたいになった。

2009年10月14日

国のあり方:経済から文化へ(結の巻)

◆文化立国のすすめ
日本の再生は、文化立国を目指すことにある。
地方の独自性(地方色)から発信される豊かで多様な日本の【文化】。
もはや「経済」をあれこれといじくり回せばなんとかなる、という日本ではない。

「経済」では、地方は活性化されない。(地方は経済では非効率ゆえ軽視されるから)
「経済」では、社会は幸せにならない。(豊かさは豊かな者へと優先配分されるから)
「経済」では、利益を追求しては破綻する。(自己破綻を防ぐ仕組みを持たないから)

【文化】は、地方を自立的に活性化する。(地方色を発揮し互いに切磋琢磨するから)
【文化】は、社会に安心安定感を与える。(個人の年功が累積・評価されていくから)
【文化】は、「経済」をも活性化させる。(独創的文化は海外との競合に優位だから)

◆文化立国への道
【文化】を基盤とする考え方で世界をみると、興味深いことが分かる。
「経済」=GDPでは、米欧日中が四極を占めている。
日本以外の米欧中は、人口も面積もはるかに大きく、民族も言語も宗教も多様である。

米国は、自由を求めて世界の英才が集結し、移民も流入し、IT・農業大国でもある。
欧州共同体は、【文化】と「経済」を共存させており、多様性はいうまでもない。
中国は、最大の人口が老齢化するまでは、経済成長し、規模の利益を享受し続ける。

では、人口も面積も小さく、民族も言語も宗教もほぼ単一的な日本はどするか。
それは、独自の多様性に富む【文化】を基盤とする文化立国を目指すことだと思う。
米欧中+印の「大」に伍し、「小」ながら【文化】で確実に<一極>を構成できる。

日本が「経済」で成長できたのは、【文化】が育んだ人的資源のお陰であった。
それを認識せず、「経済」は【文化】を破壊し、ツケが回って社会は破綻状態だ。
これからは、【文化】を維持・発展させるために「経済」を利用することだ。

◆高齢化社会には【文化】を
【文化】には年季が必要で、年をとって経験を積むことがレベルの向上につながる。
伝統に重みがあり、熟成には時間がかかり、高齢化はむしろプラスである。
経験を積み、創意工夫を重ねて、技能・技術が維持され発展していく。

「経済」は、とくに近年の技術開発志向経済は、早い者勝ちのデス・マッチだ。
既存の技術を次々と陳腐化させて、新製品で先行者利潤を挙げることが目的になる。
あくせくと前進するしかない企業は、開発部門で若者を優遇し、中高年はゴミ扱いだ。

消費者も新しい技術の商品に順応する若者が主役で、高齢者は疎外され勝ちだ。
デジタル経済社会では、その格差がきわめて大きくなった。
少子化で「経済」を支える若者が減り、増える高齢者は「経済」のお荷物になる。

つまり、『少子高齢化社会では、既存の「経済」は成り立たない』ことがわかる。
だから、経済学者も次の日本の「経済」に有効な政策を提案できない。
環境、省エネなどの有望とされる産業も、新興国とのデス・マッチが待っている。

もはや、日本は「経済」では成り立たないのだ。
この絶望的な閉塞感を、国民は肌で実感している。
谷垣自民党や経済学者が、依然唱える経済成長路線は、ただ空虚に響くだけである。

残念ながら、民主党政権も社会変革の政策を明示できていない。
文化立国を政策の軸にすれば、「経済」の次に来る社会の姿が見えてくる。
【文化】は、「経済」を排除するものではなく、「経済」にも新たな活力を与える。

【文化】を再生して地方を再生し、地方を再生して日本を再生する。
文化立国は、経済立国とは全く逆の理念なのである。
文化立国で、世界の<一極>で輝き続ける日本を、ぜひ創り上げたいものである。

2009年10月13日

国のあり方:経済から文化へ(転の巻)

◆変革を阻む障害の排除
文化立国への転換にあたっては、大きな障害を排除していく必要がある。
基本的には、既得権益や旧弊に浸りきった体質のもろもろである。
いくつかの<コンナモノイラナイ>という例を挙げてみたい。

1)道州制 ~ 上からの地方分権
日本再生は地方分権がカギで、その具体策は「道州制」だとされている。
しかし、この「道州制」に国民の期待はまるで盛り上がらない。 レッドカードだ。
理由は、二つあると思う。

ひとつには、「道州制」は官・財主導の上からの地方分権だからである。
「道州制」は国の出先機関の区分そのままに近い。
官僚から見れば、既得権力の出先機関を道・州に集約するだけでウハウハだ。

財界や経済学者も「道州制」論者が多いが、企業における事業部制のような制度だ。
都道府県を廃止し、上から日本を切り分け、そこへ中央の権限を振り分ける形態だ。
国民(住民)にとって、現状よりよくなるという生活実感が全くない制度なのだ。

ふたつには、「道州制」には【文化】の視点が全くないことだ。
形式的な権限分散と経済効率を重視した地方分権案に過ぎない。
国民(住民)の関心は、生活や文化に向かっており、そこに大きなギャップがある。

【文化】の視点からは都道府県でも広すぎる。(「経済」の視点からは狭ますぎるが)
つまり、都道府県を、道・州に拡げるよりも、十数個の【文化】圏に分ける方がいい。
数百の【文化】圏が、自主の気概を持って独自性を発揮するのである。

2)経済(Economy)の驕り
「経済」には驕り(おごり)がある。
「経済」が、社会を作り、文化を作るという驕りだ。
逆に、社会や文化に必要だから「経済」があるのだ。

Economyの翻訳語が「経済」で、明治時代に福沢諭吉が提唱したらしい。
その語源は「経世済民」である。
「経世済民」は、1500年ほど前の中国で既に使われていて、略語が「経済」であった。

「経世済民」とは、<世を経(おさ)め、民を済(すく)う>という心構えの教えだ。
ところが、Economy(翻訳で「経済」)=「経世済民」という勘違いが生じた。
つまり、経済(Economy)が世を治め、国民を救うという、うぬぼれた。

「経世」は、現代では『政治・行政』の担当であり、「経済」の担当ではない。
「済民」は、GDP至上主義の経済ではほとんど忘れられ、企業優先が現実だ。
「経世」でうぬぼれ、「済民」を忘れた驕れる経済至上主義者達にレッドカードを。

3)マスメディアの旧体質
先の衆議院選挙で政権が交代し、鳩山内閣が発足し、始動した。
旧自公政権時代と違い、清新な印象が強く、世論の支持率も高い。
この大変化に際して、目立つのは「マスメディアの旧体質」だ。

たとえば、日本経済新聞の社説や論説は、未だ小泉構造改革路線の論調のまま。
市場経済と経済成長とGDP拡大の主張は、選挙の民意に沿うものとはいえない。
民意は、生活優先の政策とまともな社会への変革の実行なのである。

民主党の政策(マニフェスト)を批判するのはいいが、財界寄りに過ぎる。
記事の方は民意を踏まえていて、きわめて正当な内容が多い。
新聞の性格もあるが、頭の切り替えができていない論者などにレッドカードを。

同じことが、TVキャスター、コメンテータにも見られる。
政権の大臣などに、政策実行のための財源はあるか、としつこく問い質す。
まるで、選挙前の自民党の代弁者であり、自らの立場を分かっていない。

選挙の結果を受けて、180度の転換が必要だ。
官僚予算を組み替えろ、暫定税率廃止は修正しろ、規制改革を大胆に進めろ、‥‥。
大転換期に、前向きの提案・提言ができないマスメディア関係者にレッドカードを。

4)官僚の抵抗
省益優先、無謬神話、天下り、官製談合、随意契約、前例主義、無用な規制、‥‥。
どうしようもない。 ばっさりやるのみ。
まずは、官僚全員にイエローカードか。

◆障害を排して文化立国へ
「経済」の頭を「文化」の頭に切り替えるのは、なかなか難しい。
理念を掲げる強い政治的リーダーシップが求められる。
その理念を実践するには、粘り強い草の根の国民の支持が不可欠だ。

民主党の政策の「文化」志向は不明瞭だが、旧政権よりは大lに希望が持てる。
地方には優れた文化的活動が散見される。
国に頼らず、地方に任せず、それが文化立国の基本理念だと思う。

2009年10月11日

日本のあり方:経済から文化へ(承の巻)

◆日本の【文化】
日本には、1500年以上におよぶ歴史と文化がある。
世界に誇る独自で高水準の文化だ。
恵まれた自然・風土、それらと見事に調和した農耕系の文化だ。

四季の変化に富む気候で、緑の山野が青い海に囲まれた東洋の島国。
勤勉・実直で、繊細・緻密な感性を持つ祖先達は、「和」の文化を育んできた。
あくなき好奇心と創意工夫は匠の技の原点になっている。

◆【文化】は江戸時代に完熟
江戸時代には、幕藩体制の下、300余藩で独自の文化が醸成された。
地勢、気象は変化に富み、方言、慣習、食、特産物、教育などは実に多彩であった。
主産業は水田耕作であり、経済は基本的に地産地消であった。

独自な地方文化が、参勤交代などで江戸に集まった。
既に歴史で積み上げられていた文化も尊重・継承されていた。
異文化が時空を越えて複雑に交錯・交流し、豊かな江戸文化に融合・発展した。

米の集積地の大坂でも上方文化が発達し、京は都の文化を守った。
地方と江戸・上方・京の文化は、江戸時代を通じて相互に影響しあい、熟成された。
鎖国と太平の世の中で、文化のマグマがたぎっていた。

◆【文化】が生んだ「人」資源
明治維新以降の日本は、蓄積された文化を資源として活用してきた。
実際は、「文化が生み出す人」を資源として利用した。
欧米の経済に追いつくための、日本の有効な手段であった。

明治維新では、優れた人物が地方から多数現れ、リーダーとして社会を変革した。
坂本龍馬、吉田松陰、大久保利通、福沢諭吉など枚挙にいとまがない。 
富国(経済力)で発展したが、強兵(軍事力)で国策を誤り、太平洋戦争へと至った。

敗戦後は経済発展を国策として、労働力が地方から工業地帯に続々と送り込まれた。
ひとりひとりが組織の歯車として、勤勉・実直に働き、同時に有力な消費者となった。
大企業を中心とした年功序列・終身雇用の総中流意識の社会が構成されていった。

◆【文化】資源の枯渇
昭和バブルはそうした「経済」主導の社会の破綻であった。
効率優先の「経済」は、人を都市に集中させ、地方文化を支える人材を奪った。
効率優先の「経済」は、大量生産大量消費の洪水で、地方文化の独自性を破壊した。

【文化】を浪費するのみで、その保護や育成への努力を怠ったツケが回ってきた。
農村は疲弊し、高齢過疎化し、商店街・地場産業は競争に敗れ、地域社会は崩壊した。
地方には、もはや独自の【文化】で人材を育て、都会へ供給する力はない。

一方、大都会の大量生産大量消費の真ん中で育った人材は、基本的に多様性に欠ける。
満員電車で通うサラリーマン、仕事のない若者、孤独な高齢者、金の亡者達 ‥‥
メタボの大都会(東京)では、ゆとりのある豊かな【文化】は醸成されない。

現在の日本は、未来の展望を失い、閉塞感にさいなまれている。
原因は、資源としての独自【文化】が枯渇し、独自な人材が枯渇したからだ。
江戸時代までに蓄積された【文化】は、昭和(バブル崩壊)までに使い尽くされた。

◆「経済」は「雑」を排除し、自ら失速
「雑」は非効率であるとして排除するのが「経済」だ。
「純」が効率がよいとして優遇される。
標準化、均一化し、大量生産・大量販売を押し進める。

これは、コーラ+ハンバーグと自動車とTVのアメリカ的社会だ。
地元でコツコツと営みを続けてきた個人商店、零細企業、零細農家は切り捨てられた。
「雑」とみなされた地方は根こそぎに、地方文化も一連托生で、切り捨てられた。

まるで、栄養素を、蛋白質・炭水化物・脂肪の三つだけ摂取してきたようなものだ。
ビタミンやミネラルを無視したあげく、合併症を患っているのが今の日本の現状だ。
B1不足」で脚気、カルシュウム不足で骨粗そう症、鉄分不足で貧血、などなど ‥‥。

「雑を排した経済」の失敗をその「経済」自身でカバーするのは、不可能だ。
バブルの崩壊後の政策は、日本再生を「経済」に依存し続けて失敗した。
結果、15年以上も低空飛行を続け、未来の展望も全く開けなくなってしまった。

◆地方文化の稀少価値
地方文化は、ビタミンであり、ミネラルだ。
日本にとって欠くことのできない稀少栄養素だ。
ひとつひとつは稀少であっても、いずれもそれぞれに果たす独自の役割がある。

こうした地方文化は、経済効率のフルイでは「雑」としてふるい落とされてきた。
我々は新たに【文化】の価値のフルイを使う必要がある。
明治以来、捨て続けてきた地方文化を敬意と反省をもって再生し、活用すべきだ。

日本文化は、世界に誇る高水準の独自文化であり、時代を越えて光り輝いている。
その本質は、独自の地方文化が支えていることを認識しなくてはならない。
地方文化を衰退させた「経済」主導の政策を、【文化】主導に改めなければならない。

2009年10月10日

日本のあり方:経済から文化へ(起の巻)

◆【文化】を基盤とする国家へ
これからの日本は【文化】国家を目指すべきと思う。
経済大国ではなく、文化大国へ。
経済立国ではなく、文化立国へ。

◆経済主導の行き詰まり
現代は、経済主導の時代で「経済」=GDP成長こそが国家を支えるという考え方だ。
企業が成長→従業員の給与上昇→消費が増大→企業の売上増加、という循環。
持ちつ持たれつの大量生産・大量消費で、みんなが「経済」的に豊かになっていった。

しかし、高度成長が行き詰まり、余剰資金で土地バブルが発生、やがてはじけた。
少子高齢化も加わり、内需が落ち込み、輸出依存の低成長時代に入った。
暗中模索の失われた十年が経過し、打開を図った小泉構造改革も格差をもたらし挫折。

◆経済至上主義の終焉
気が付けば、経済を追い求めた末、日本社会は規格化・単純化・均質化されていた。
地方は独自の【文化】を喪失し、過疎と高齢化にあえいでいる。
日本はこんな国ではないはずだ。 だれがこんな国にしてしまったのだ。

自嘲を込めて怒る国民は、先の8月の衆議院選挙で政権交代を選択した。
自民党政治=経済至上主義、に決別した。
大量生産・大量消費の経済至上社会を終焉させる、政治的機会が訪れたといえる。

◆【文化】で日本を再生
日本が「経済」の成果を輸出して社会を発展させる時代は終わった。
これからは【文化】を創出して社会を発展させる時代になる。
資源輸入→加工→輸出の「経済」から、伝統→熟成→創出の【文化】への大転換だ。

【文化】は、石油や鉄などのハードな資源と違い、汲めども尽きぬソフトな資源だ。
条件を整えれば、千年でも自己再生産を繰り返す。
ハードな「経済」からソフトな【文化】への転換に日本の未来がかかっている。